主日礼拝「宝の箱を開けて」マタイによる福音書2章1~12節

年の瀬を迎えた。この時期になるとよく取り上げられる俳句がある。「何にこの師走の市にゆく烏(からす)」。松尾芭蕉の晩年(46歳)の時に詠まれた1句である。「この師走の寒空に、烏が市の方へと飛んでゆく。何を好んで、人込みでごった返す師走の市なんぞへ行こうとするのだろうか」。「この」は烏に掛るとともに、芭蕉自身をも暗示している、といわれる。もの好きにも人込みの中に行きたがるとは、愚かしい。しかし烏を咎める口調の奥に、孤独を愛しつつも、にぎやかな歳末の市に心ひかれ、人中を懐かしがる自分への嘆息がこもっている。年の瀬の人混みに分け入って、俗塵にまみれたいという、抑えがたい己の欲求を、烏に託して詠んだとされる。俳聖も人の子、老境を迎えた俳人の心の内が伺えるようで興味深い。皆さんは、この句を読んでどう感じられるか。普段以上に、この俳人の心に、共感を覚えるのではなかろうか。

先週はクリスマス礼拝を守り、24日夕には、イヴ礼拝を行うことが出来た。深く感謝したい。教会の皆さんと共に、イースター礼拝で、春の訪れを祝い、クリスマス・イヴの夜には、暗さの中に光の到来を喜ぶ、このいつもなら教会として当たり前のことが、今年は当たり前にできない、一年でもあった。当たり前の事柄の背後に、み守りや導きが働いていることを、何かにつけて知らされた年でもあった。

さて、主のご降誕の、その時には、天使からみ告げを受けた羊飼いたちが、生まれたばかりの嬰児イエスにお目にかかった。それから一週間後に、東方の博士たちが主イエスの下にやって来たと、伝えられている。だから教会の典礼暦では、クリスマス礼拝の一週間後に、この聖書個所が読まれることになっている。

東方、今に言う「メソポタミア」、現在のイラク辺りである。新共同訳では、彼らは「占星術の学者」と訳されているが、余りに訳しすぎということで、新しい聖書翻訳では「博士」と元訳に戻っている。原語の「マゴイ」とは「賢者、知者」を表す用語である。占星術もしたろうが、それだけを商売にしていた訳ではない。

その彼らが、遠い故郷を旅立って、ユダヤの地にわざわざやって来た。なぜか。「東の方でその方(救い主)の星を見たので、拝みに来た」というのである。「拝む」という言葉を使っているが、要は自分たちが観察した事柄が、真実であるかどうか、確かめる(実証)ためにやって来た、というのである。実に学者らしい態度、ふるまいであろう。仮説を立て、検証し、その真偽を明らかにする。基本的な学問の姿勢である。自分で身体を動かして、自分の方から歩み出して、「準備のある人にしか、偶然は訪れない」(フランスの細菌学者ルイ・パスツールの言葉)と言われるがその通りであろう。この東方の学者たちと対照的なのは、ヘロデ大王とエルサレムの人々である。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わたしも行って拝もう」、完全に人任せ、他人のふんどしである。これでは神の「偶然」に出会い、神の計画を目の当たりにすることは出来ないであろう。それよりも「不安を感じた」とあるように、人任せで、自分から歩み出さない人には、ただ「不安」が増すばかりなのである。考えずに走り出すのは危ないが、考えすぎて、動けなくなってしまうのも、もっと問題である。

さて、博士たちは、エルサレムへとやって来る。御子の生まれた町に真っすぐに直行したのではなく、エルサレム(ベツレヘムに隣接)のヘロデの王宮にやって来たのである。どうしてエルサレムなのか。「ユダヤ人の王として誕生した御子」ならば王宮にいるはず、という、極めて常識的な判断をしたからである。学者らしい判断だと思う。合理的だが硬直化した思考である。そしてその常識的判断は、彼らが「星の光を見失った」という単純な事実を物語るものである。

どんなに頭がよく、研鑽を積んで、努力を惜しまず、熱心な人であっても、神の光、神の導き、神の言葉を失ってしまうことがある。東の博士たちも、まったく同様であった。だから仕方なくヘロデのところに行ったのであり、そこは本当の目的地ではなかった。今、進学や就職のためにいろいろ努力を重ねている方々がいるだろう。それぞれが自分の希望や夢を描いて行き先を定めようとする。何ほどかの行き先が見えなければ、歩き出しようがない。ただ承知しておきたいのは、それもまたひとつの目的地なのであって、ただ一つの行くべき地ではない。私たちの人生の目的地は、本来「神の約束の地」であって、自分の領分には属していないのである。

ヘロデに教えられたように、彼らはベツレヘムへの道に歩み出す。すると不思議な出来事が起こる。彼らは実に、「星の光」によって、「星」を目指して、はるばると旅をして、やがて「光」を見失ったのである。普通、人生ではこれを挫折とか、失敗とか、力足らずとか、努力不足とか呼ぶ。ところが聖書は、これを「導き」と呼ぶのである。光を見失ったら、暗かろうし、右往左往するだろうし、不安心配に心が満ちるだろう。しかし、だからこそほんとうの光が見えてくるのではないか。明るい昼間では星の光は見えないが、確かにそこに星はあり、光っている。明るいと見えない、暗いからこそ見える光がある。

「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった、学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。「喜びにあふれた」、原語では「喜びを喜んだ」という具合に、いささかぎこちない筆致で記されているが、それはこの博士たちの喜びが、尋常でない喜びであることを、何とかして伝えたいと考えているからである。私の力の費えたところ、どうしようもないところ、いわば「暗闇の中」に光る星があるということ、「暗闇の中」で、私を導く光があるということ、これを知らされた者は、「喜びに喜ぶ」という、不思議な喜びを味わいつつ、人生を生きるようになる。それは人間の目論んだところとは、全く違ったところ、思ってもみない所に、神は人間を導いて行くからである。

この春先に、緊急事態宣言で「ステイホーム」を余儀なくされた頃のこと、ネット上で話題になった歌がある。「しばらくは 離れて暮らす コとロとナ つぎ逢ふ時は 君といふ字に」。イラストレーター、タナカサダユキさんの一首だが、うまいことを考えるものである。漢字の「君」はたしかに「コ」「ロ」「ナ」を組み合わせたようでもある。イラストでは「コ」「ロ」「ナ」を色違いに描き、文字を作っている。ものの見方しだいで、世界は違って見えてくる、ということだろうか。

博士たちは、星の光に導かれて、生まれたばかりの幼児である「救い主」にお目にかかった。彼らは「夢でお告げがあったので、別の道を通って」帰って行った、というのである。救い主、キリストに出会った者は、「別の道」が与えられる。「別の道」とは「世界に対する違った見方」ができるようになる、ということかもしれない。コロナの字が組み合わされて「君」という字が見えて来る。コロナの中にも、ちゃんと大事な人がいて下さって、働かれている、そういう君がいてくださる。この一年は、そのことを様々な機会に示されて来た一年だったかもしれない。そして次の新しい年には、今年とはまた違った、「新しい道」が示されることであろう。