墓前礼拝説教 ヨハネによる福音書19章38~42節

私の前任地の教会は、大阪の高槻にあったが、その地は戦国時代にはキリシタン大名、高山右近が治めた町であった。1573年から85年頃まで、この町に住む人々の7割がキリシタンになったと伝えられる。町中には、20もの壮麗な教会が建設されたという。少し前にマンション建設のために天主堂近くの土地の表土を除去した折、キリシタン墓地が発掘された。禁教令の下、迫害によって破壊されることが多いので、良好な状態での発掘は珍しく、大きく報道され、イタリアの新聞にも掲載されたという。

屈葬が主流の時代に、埋葬者は皆、棺に納められ眠っている姿勢で埋葬され、とりわけ目を引くのは、男、女、幼児、成年、熟年、様々の年齢の者たちが皆、同じ形に丁重に葬られていることで、棺の裏板に墨書きされたニ支十字や、死者にそえられた木製のロザリオがあったことから、キリシタン墓地であると確認された。

当時の宣教師の記録、フロイス『日本史』にはこう記されている、「貧しい兵士等が亡くなるとその遺骸は、下層民に運ばれる習慣であったが、領主親子は彼らに代って、自ら遺骸の入った棺を担ぎ埋葬した。これは家臣らへの模範を示すためのもので、多くの人が慈悲の所作を行うようになった」。当時は、貧しい人が亡くなって、きちんとした葬儀が行われるのは驚異的なことであった。「ある二人の貧民が亡くなった。領主は早速、棺を制作させ、真中に白い十字架を付した黒緞子の棺布で覆い、上から下まで男女のキリシタン全員を招集し、死者たちを葬るために、一同、自宅から蝋燭を点した提燈を持参するように、と命じた。そして、領主は、棺を担う敬虔な行為が習慣となるようにと、この役を自ら引き受けた。貴人達は、主君達がこのような範を垂れたのを見るに及び、手にしていた蝋燭を手放し、死者たちのための穴を掘り、埋葬しようとして、誰もが真先に鍬をとろうと争いあった。貴婦人達さえ、各々手にいっぱい土を持ち、死者の墓穴に投げるために傍らに寄って来た。そしてそれ以降、彼等の間では、貴人達がこうした埋葬にあたって助けることが習慣として留まるに至った」。

当時のこの国の習慣では、葬儀は大名や上級民だけが行うものであり、庶民は、ただ風呂桶のような棺桶に屈葬(かがんだ姿勢)で、多くは無縁墓のような場所に投げ込まれるようにして葬られた。眠った姿勢で棺に納められ、見送りの手厚い儀礼を伴って葬られる、しかも老若男女、貴賤の別なく丁重に送られるというのは、常識外のことであった。無論、こうした発想は、宣教師たちの考えからの流入であろうが、その根本には、今日、読んだ聖書個所の反映があるだろう。

十字架に付けられた人は、重大な犯罪者であり、神から呪われた者であるから、通常は、そのまま数日間放って置かれて、遺体は、ゴミ捨て場のような穴の中に投げ込まれて遺棄されるのが常であった。しかし議員で会ったアリマタヤのヨセフは、(隠れキリシタン)たまらずに裏で手をまわして総督に願い出で、主イエスを墓に葬ったという。

主イエスが、こうした篤志家の手によって、急ぎつつもきちんと墓に納められ、埋葬されたことは、やはり私たちに深い慰めを憶えさせる。ひとり一人、その人生の生きざまは異なり、人間の目から見たら、いろいろその足跡に評価が下されるだろう。しかし、亡骸が粗末に、ごみのように捨てられるのでは、何ともやりきれない思いが残る。人ひとりの人生は、それがどのようであれ、粗末にされてはならないと考えるからである。

それと同時に、主イエスの埋葬の記事は、主イエスの死が、偽りではなく、確かなものであったことを、示すために、福音書に記されているのである。主イエスの死は、嘘、偽りなく、全き死であった、と主張しているのである。アリマタヤのヨセフというあの信頼できる義人が、イエスの死をちゃんと確認しているのだ、と示そうというのである。

私たちは、死を「終り」として考えている。その目に見える象徴が、「墓」なのである。人の一生は、誕生から始まり、死をもって終わる、そして墓は、その人の一生のすべてを総括するような象徴なのである。

ところがそのような終わりの象徴である「墓」を、聖書はまったく私たちの感覚と異なる点から見ているのである。墓が印象的に記述される文章がいくつかある。アブラハムは牧父として、一生を旅に過ごした人であった。ところがその人生の中で、一度だけ、パレスチナの土地を購入するという行動をしている。どうして土地が必要になったかと言えば、妻のサラがヘブロンの地で亡くなったからである。妻を葬るために場末のマクペラにある洞窟を土地の者から買い求め、愛する妻の墓とするのである。そしてついには、自らもそこに葬られることになる。ところがこの人間の終わりの時と場である「墓」が買い求められたことで、イスラエル民族は、パレスチナに定着するきっかけを得るのである。「墓」は始まりの出来事を告げるものでもあった。

主イエスも同じである。墓は主イエスの最後を表している。ところがこの墓からよみがえることで、復活の生命の先駆けとなるのである。主イエスのご復活も、「墓」から始まるのである。キリスト者に問って、墓は終の棲家ではない、ここから始まる、スタート地点なのである。但し「墓」を出発点にするのは、ひとえに人間ではなく、神のみわざである。いつか、葬むられている人々の上に、神の声が響くであろう。「起きなさい、目を覚ましなさい」。その時には寝坊しないよう、心掛けたいものである。