祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙2章1~16節

アメリカで、黒人として初めての国務長官を務めた、コリン・パウエル氏の訃報が伝えられた。ある地方紙が、追悼記事で、このような逸話を伝えていた。10代半ばの少年は教会主催のキャンプを抜け出し、悪童たちとビールを買いに行く。隠しておいたビールはすぐ見つかった。司祭は「誰か責任をとる者は名乗りなさい」。少年は正直に罪を告白し、悪童たちも続いた。家では両親のこっぴどい説教が待っていた。だが、自ら名乗ったと司祭が電話で伝えると両親に笑みが戻る。「正直が報いられ、責任をとれば罪があがなわれる」と思い知った―。先ごろ死去したパウエル元米国務長官の自伝にある(10月22日付「小社会」)。

インターネットの「誹謗中傷」が話題になっている。そこへの書き込みは匿名性が高く、自分の意見を発することが、他のメディアよりも容易である。この事は、書き込みを読む側の気持ちに配慮せず、無思慮に掲示板やホームページに誹謗中傷を含んだ文言を書き込む、といった行為に繋がっていく。誰か見知らぬ他人に対して(直接会っている訳ではない)、まったく無遠慮に裁きの言葉を記す、という心理を、皆さんはどう感じられるだろうか。「自分は正しい」、「ズルをしている誰かは許せない」。だから、「そんなやつに対しては、どんな暴力を振るっても許される」。そんな心理状態によって実行に移される行動を、英語で「サンクション(制裁)」といい、学術的な用語としても用いられるという。

この心理の傾向に歯止めをかけるために、しばしば「厳罰化」「非匿名化」をもって対処すればよいと主張されている。匿名性の仮面がはがされ、厳しい罰で脅したら、人間、滅多なことは出来ないだろう、という訳である。他方、人間の本質は「弱い」として、「性悪説」「性善説」ならぬ「性弱説」に立って、それをカバーするAI技術によって、「誹謗中傷」の言葉が書き込まれそうになったら、自動的に人工知能の働きで、抹消できるようにしようという動きもある。もはや人間自らの力では如何ともしがたいから、AIにお任せという塩梅なのである。ある種の「責任転嫁」であろう。

主イエスは、誰か他人を裁く行為について、こう語っている。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか(マタイによる福音書7章1節以下)」。確かに主イエスは人間の現実をよく見ておられる。他人の目の「おが屑」は、はっきり見える、それを針小棒大に言い募る、ところが肝心の自分の目の中の「丸太」は、まったく気づかずにいる。平気の平左で、誰か他人を裁くのである。こういうどうしようもない人間の性は、現代も変わることはない。

パウロもまた今日の個所、ローマの信徒への手紙2章の冒頭にこう記している「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。この文言は、主イエスの「人を裁くな」と同趣旨の言葉のように見える。もちろんパウロも。この主の言葉の伝承を、聞いており、良く知っていて語っているだろう。しかしパウロの場合は、よりローマという都市に生きる人間の実情を意識して、そこに生じている問題に即して語るのである。

ここでパウロは、単に主イエスのみ言葉を踏襲して「人を裁くな」と勧めているのではない。事態はもっと生々しく、これが本当なら、まったく呆れる事柄が問題にされているのである。1章29節以下に、パウロはこの時代の人々の悪徳と呼べるものを、リストアップしている。彼はこうしたいくつもの言葉を連ねた一覧表を提示するのが好きなようだ。コリントの信徒へ手紙二11章23節以下には、自分が経験した「苦難のリスト」を記している。自分の苦労をこれ見よがしに語るのは、余り感心はしないが。

23節「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です」。殊更、ローマ人だけがこうした悪徳に染まり、不義に染まった生き方をしている訳ではない。神からの律法を身に帯びているユダヤ人もまた、これらの悪徳から決して無縁ではないのである。現代に生きる私たちもまた、これらの諸々の悪にまったく無関係に生きているとは言えないだろう。

ところが、前述したように、「自分は正しい」、「ズルをしている誰かは許せない」。だから、「そんなやつに対しては、どんな暴力を振るっても許される」と思い込んで、誰か他人を攻撃し始めるのが、人間の常なのである。自分もまた後ろめたいものを引きずりながら、叩けば埃の出る身でありながら、他人の身を、殊更に叩こうとするのである。1節後半「他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。

よく「言葉はブーメラン」であると言われる。自分がかつて言った台詞が、自分に跳ね返って来て、自分を打つのである。他人を裁くその裁きの言葉が、そのまま今度は自分の罪を論い、罪に定めるものとなる」とパウロは言うのである。主イエスの地上での歩みをまっすぐ見るなら、神は私たちの罪を裁く方ではなく、忍耐をもって憐れみを注ぎ出される方であることが分かるだろう。主イエスは、十字架の上で、罪人への赦しの言葉を語られたのである。それを思い起こすなら、もはや、人間にできるのは「裁き」ではなく「悔い改め」しかないだろう。4節「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」。

パウエル氏は、少年時代に、「悔い改め」が「罪をあがなう」ことを、教会で学んだのである。ひとりの人間として、人間である限り、彼もまた罪から全く逃れることはできなかった。しかし彼は自分のおかした過ちを知っており、その過ちを終生「悔い」ながら人生を歩む人でもあった。つまり、敢えて言えば、彼は主イエスの十字架を常に見上げながら、自分の人生を歩んだのであろう。ネットに限らず「誹謗中傷」する者には、自分の十字架と赦しが見えていないのである。