永眠者記念礼拝「日々、主を楽しませ」箴言8章22~31節

今日はこの教会の永眠者記念礼拝である。毎年、この礼拝の度に、鶴川北教会の教会員、またこの教会に連なる方々で、先に天に召された方々のお名前を記したプリントを作成し、お配りしている。この教会は、生まれてからまだ半世紀に満たない教会である。それでもA4判のプリント表裏にびっしりと芳名が記されている。これだけ沢山の方々が、今は主のみ下にあって、わたしたちよりも先に行って、待っていてくださっているのである。「早よ来い」と手招きしているということはないだろうが。

以前、公私に渡っていろいろお世話になった老牧師先生が、齢満ちて天に召され、一カ月程経った頃、その先生の名で葉書が送られてきたことがある。こう記されていた「今は天国二階座敷、天井桟敷の間にあって、懐かしい方々、皆とお会いし、旧交を温めております。お近くにお出での際には、ぜひお気軽にお立ち寄りを、と言えないのが残念ですが」。おそらく、生前、この牧師自身によって認められた手紙が、死後、ご遺族の手によって投かんされたものであろう。

「死」は別れであって、別離に伴う悲しみと嘆きは、致し方ないものであるが、残された者たちが、悲しみと嘆きに埋め尽くされてしまわないように、悲しみの中に何ほどかの慰安を贈りたいという、この老牧師の諧謔味溢れる心遣いがうれしく、何より天国の有様がリアルに目に浮かぶような、まさに「天国からの手紙」であった。これもまた信仰による「知恵」であろう。その知恵とは、いわば「死」という人間の力では越えられない深淵に、小さな橋を架けるような営みかもしれない。

旧約には「ヨブ記」「箴言」「コヘレトの言葉」等、知恵を主題にした書物が多く収められている。旧約全体からすれば、その記述の量もかなりまとまったものであり、それだけでもユダヤの民が「知恵」を重んじていたことが知れる。「知恵」とは、「生活の知恵」に代表されるように、この世を生きるための方便であるが、ユダヤ人は「神の言葉」を正しく受け止める「縁」あるいは「媒介」であるとも考えていた。神の言葉を取り次ぎ、人々に語ることができるのは、まず祭儀や律法を通して神の言葉を語る「祭司」、次に、神から直接の啓示を受けて語る「預言者」、そして「知恵ある者(知者)」なのである。知者はその知恵によって、森羅万象、様々な事物を通して、この世界のただ中に語られる神の啓示を、深い知恵によって聴き採ることができると期待されたのである。

さて、今日の個所、冒頭の22節「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」。「その道」とか「いにしえの御業」とは何のことか。これは「天地創造」を指している。つまりこのパラグラフは、「創造物語」の一節なのである。「天地創造」というと私たちは、創世記の冒頭部分の、神の7日間の創造、あるいはアダムとイブの物語を思い起こす。ところが古代のイスラエルには、いくつもの創造の物語が語り伝えられていたらしい。その断片が、例えばイザヤ書の中に、そして今日の箴言の、このテキストに伝えられているのである。

箴言の創造物語の一番の特徴は、「最初の被造物(一番最初に造られたもの)」、つまり「創造の初穂」についての言及である。大体、最重要な役柄は一番先に、あるいは一番最後に登場するものだ。兄弟の二番目(次男坊)などは相手にもされない。だから、「神は先頭を歩まれ、またしんがりを務められる」、と語られ、主イエスもまた「α(最初)」であり「ω(最後)」であると語られる。では今日の個所で、すべてのものに先立って、真っ先に造られたものとは、何だろうか。23節以下「永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた云々」。そしてこの最初に造られたものは、30節「御もとにあって、日々、巧みに、音楽を奏でて主を楽しませ、人間たちとも共に楽しんだ」という。この芸達者で楽しい「わたし」とは何を指すと思われるか。

聖書の人々が定着した「パレスチナ」,旧名「カナン」には、世界で一番古い神話や伝説が沢山伝えられている地域であった。カナンの神話のほとんどは「農耕」にまつわる物語で、豊かな収穫、豊穣や豊年を祈願するものであった。だから男神には必ず配偶神(奥様)が付き従っている。ところがイスラエルの神、ヤーウェは、唯一の神である。奥方は存在しないのであるが、イスラエル人たちは、古いカナンの神話を利用しながらも、自分たちの神の創造の物語を語ろうと試みているのである。

ここで「わたし」とは「知恵」のことである。ヘブライ語で「ホクマー」、この語は女性名詞で、知恵はどの文化でも、ほぼ「女性」に準えられることが多い。やはりイメージとして知恵は、女性的な印象を受ける。神のみもとに、女性である「知恵」がお側に付き従って、あれこれと世話を焼き、ご機嫌を伺う、という記述に、古いカナンの神話の痕跡を見出せるかもしれない。それでも「知恵」を女性に準えるというのは、時代を超えて説得力を持つのではないか。レントルフという聖書学者はこう記している。「年老いた男のどこにいいところがあろう。年老いた女が蓄えている、長年の間に育んだ深い生活の知恵に比べれば」(『旧約聖書の人間像』)。

さて、この個所は、知恵の役割、そしてその働きについて語ろうとしているのだが、そもそも「知恵」の働きとは何であるのか。人間の歴史において、知恵は人間の生活を豊かにし、便利にし、苦痛を除き、楽にするための様々ものを生み出して来た。箴言の言葉には、当時の最先端技術をほうふつとさせるものも多い。鉱山学、冶金学、建築学等、今でいう所の工業技術も「知恵の発露」として語られるのである。しかし、その逆に、知恵が不正に歪んで用いられるときの禍いや不幸をも共に語るのである。それは現代の核兵器に典型的なように、知恵によって、かえって人間が、大きく苦しむと言う事態を指摘していることに驚かされる。「神なき人間は、知恵ある悪魔を造る」と言われる通りである。人間の知恵は、ややもすれば、自らに大きな悲惨を招くものともなる。

しかしそもそも、知恵の働きとは何か。箴言は語る、「楽を奏して、日々、主を楽しませ、神の造られた地上の人々と共に、楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」ことだというのである。つまり知恵とは、神と人との間に立って、神にも人にも、「楽しみと喜び」を生み出す働きなのだと言う。知恵は金儲けや経済や政治的の駆け引きの道具ではない。神と人とを楽しませ、互いに反目し敵対するような関係にも、そこに和らぎと喜びを吹き込むものだ、というメッセージを、今、私たちはどう聴くだろうか。

今日の主日は、降誕前節の初めの聖日である。もうこの聖日からクリスマスを迎える準備が始まるというのである。この日にこの個所が読まれるのは、ちゃんと理由がある。教会は、「キリストは知恵の受肉」と解して来た。キリストは「知恵」がこの世に見えるものとして誕生された。そして知恵の主であるキリストは、神と人とに「楽しみと喜び」をもたらす方なのである。

今日のテキストは、創造の初めを語るが、それは同時に神の国、天国のイメージを伝えるものでもある。「楽を奏して、日々、主を楽しませ、神の造られた地上の人々と共に、楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」ところ、これ以上に天国と呼べる場所があるだろうか。この後に歌う讃美歌290番「おどりでる姿で」は、このテキストからインスピレーションを受けて、歌詞が書かれたと伝えられる。アメリカのシェーカー教徒の讃美歌が元で、「シンプル・ギフト(単純な賜物)」という題が付けられている。歌詞を直訳してみよう「単純(シンプル)であるのは、神の賜物、自由でいるのは神の恵み、不遇をかこつ所に生きても、そこがわたしのまことの居場所と思うなら、愛と喜びの谷間となる。単純さを手に入れるなら、低くされ小さくされても、何ら恥じることはない。踊れ 踊れ、喜びが生まれるから、踊れ、踊れば、まことの自分に立ち帰れる」。生活の中で「踊り」を大切にしたシェーカー教徒の思いが込められている。「踊れば喜びが生まれる」、その喜びをただ喜べる単純さがあれば、自分の置かれている場所が、いかに不遇であっても、愛と喜びがあふれたものとなる。確かに天国はそのような場所であろう。少なくとも、天国は、あれこれごちゃごちゃと理屈を唱える所ではあるまい。そのような単純な喜びの場所が準備されていることを、先にそこに行かれたこの教会の方々と共に深く心に留めたい。