しばらく、創世記の「ヨセフ物語」が取り上げられる。旧約の中でも、皆によく知られた物語の一つであるが、聖書時代の人々にとっても、それは同様であったろう。エジプト古代文学にも、これとよく似た物語が伝えられている。人生行路をさまざまな困難に悩みつつ、どん底の境遇に落とされても、知恵を用いて克服し、ついに「出世」していくという筋書きは、世代を超えて共感を与えるドラマ性をもつのだろう。
「出世」という言葉は、今では、ほめ言葉のひとつとして使われ、世の中に出て立派な地位、身分になることを意味している。本来は、人々を救うために、仏が この世に出現するという意味と、世俗的なものを超えて、仏門に入る(出世間=出家)という意味を持っている。この言葉が日本に伝えられ、貴族などの殿上人が、仏門に入ると普通の人よりも昇進が早く、高い地位に就けば名前も知られるようになることから、一般に「身を立て、名をあげる」意味として使われるようになったようだ。「人々を救うために、仏がこの世に現れる」という本来の意味からすれば、出世した人は、世のため人のために骨身を惜しまず働かなくてはならないということだろう。
ヨセフ物語は、確かにヨセフの出世譚であり、彼の知恵の見事さが語られつつ、ストーリーが展開されていく。物語の前面には、直接には神の働きは語られない。聖書の歴史文学には、同様の語り方がなされるように、神は表舞台には登場しないのである。そういう描き方には、現代の文学にも通じるものがあるだろう。ところがひとり一人の人生に絡んで、神の摂理が、あちらこちらに張り巡らされて、その網の中をサーフィンしているのが、ヨセフその人なのである。読者はヨセフ物語を読み進めながら、自らの人生における神の網を深く思わされるのである。ひとり一人の人生は、ひとつ残らず「出世」物語であって、それは人が高名を得ることではなく、神の救いが世に現れる、つまり栄光が示されるという意味での「出世」であることに気づかされるであろう。
さて、ヤコブの息子は、12人いたと言う。この12人が後にそれぞれ部族を形成し、イスラエル民族の基となったとされる。12という数は、一年の月の数と同じで、聖数とみなされ、他国の文化でも、その数で構成されているものが、多く認められる。一年という時の長さも、12で分割すると甚だ塩梅がいいし、農耕にあたっての目安として12分割は好都合なことを、古代人は早くから見抜いていたのである。主イエスの弟子たちも、「真のイスラエル」というシャレで、その数で構成されている訳である。
ただ12の部族にも勢力の大小があり、祖のヨセフが、これ程まとまった長い物語伝承を持つからには、ヨセフ族はやはり有力な部族だったことが、推測される。とはいえ、元々ヨセフは12人の中でも、下から二番目の「末子」であり、兄たちの目からすれば、小生意気な弟である。主イエスの言葉に「後の者は先になり、先の者は後になる」という逆説的な物言いがあるが、この物語もまたそのようなモチィーフに貫かれている。実にイスラエルの論理は「逆転」にあるが、これこそが彼らの信仰の論理と言ってもよいであろう。
聖書の人々にとって、良きにつけ悪しきにつけ、「エジプト」という地は運命的な場所であった。そこと関係を持たなければ、国も民族も、信仰もないと言えるほどの腐れ縁であった。しかし、なぜよりにもよって「エジプト」なのか、という人々のからの問いに、答える必要があった。それがヨセフ物語が綿密で周到な文学として形づくられた理由である。イスラエルにとって、ヤコブは祖中の祖であるが、ヨセフは民族としてのターニングポイント(曲がり角)と目されたのである。イスラエル民族にとって、ヨセフが偉大なキーパーソンであったことは間違いない。
ヨセフは父ヤコブから偏愛されたと伝えられる。「彼は年寄り子であったので」と説明される。確かに、年老いてから誕生した子は、親にとっては短い時間しか一緒に居られない、という思いが先に立つのだろうか。あるいは、孫のような年齢の者には、ついつい甘やかしが生じるのか。とりわけイサクは「夢を解く能力」に秀でていたというが、分析力や洞察力が人一倍鋭く、父から賢さを認められていたということだろう。
しかし賢いからと言って人に好かれるわけではない。そのために兄たちから妬みを受けて、長く苦境にあえぐこととなる。今日の個所では、彼は妬みによって兄たちによって暴力を振るわれ、水溜用の穴に投げ込まれてしまった。そしてミディアン人の商人によってエジプトに奴隷として売られてしまうという過酷な運命をたどることになる。
確かに過酷な運命である。自ら望んだのでもない人生の道を、否が応でも歩まされると言う経験は、人間誰にでもあろうが、そういう不条理の人生を生きるにあたって、神はどう関係されるのか、イスラエル人にとっては、切実な問いであった。イスラエルの歴史は、苦難の歴史の繰り返しであった。「苦難」というものに、神はどうか関わられるのか、という問題は、現代に生きる私たちにとっても、決して無縁ではない。絶えず災害や災厄に脅かされながら、生活を営んでいるのが実情である。そういう生の現実の中で、神はどこにいて、何をなされているのか。ただ沈黙して、手をこまねいているだけなのか、こうした問いは、古代から現代にいたるまでの文学史において、連綿として問われて来た主題であるし、ヨセフ物語は、その問いに、まっすぐに向かっているのである。確かに直接には神は姿を現さない。どこに神のみ手が現れているのであろうか。
今日の聖書個所で、ヨセフの兄弟たちが、彼の生命を巡って議論をしている。「殺害」と「救命」の間を議論は行きつ戻りつする。その結果、ヨセフはミディアン人に奴隷として売られ、さらにそれでエジプトに連れて行かれることになる。最悪の結果は免れたものの、ヨセフにとっては、苦難の人生の始まりであった。このような人生の不条理というハプニングを、あなたはどう受け止めるのか。ヨセフ物語は、最初から読者に、鋭く問いを投げかけている。
そうした問いのひとつ、24節に「その穴は空で水はなかった」というほとんど無意味な付記のような「注釈」が加えられている。乾燥地帯のパレスチナには、水溜用の穴が至る所に掘られていた。その水ために「水はなかった」という。単なる情報にみえる言葉の裏に、語り手の文学的な仕掛けがある。この仕掛けを皆さん方は、どのように読み解くだろうか。