ある時、私の恩師が、知り合いのユダヤ人に、ユダヤ教で使う本物の聖書を譲ってほしいと頼んだそうである。手書きの羊皮紙の巻物である。ところがにべもなく断られた。異教徒に自分たちの神聖な書物を安易に与えることはできない、(つまり豚に真珠)というのである。しかしどうしてもと熱心に頼みこむと、聖書学者であり教育的立場に身を置く者だ、ということで大目に見られたのだろう、何とか旧約の中の1巻だけを譲ってくれたのだという。それを見せてもらったが、ずいぶん小さな巻物であった。それは「エステル記」だった。どうして「エステル記」を譲ってくれたのか、想像が付くだろうか。
エステル記は、歴史書というよりは、説話文学に近い物語である。ヘブライ語聖書では、『諸書(メギロート』の1書として位置付けられている。ペルシア時代を背景に記されているが、紀元前2世紀頃の成立であると推定され、ユダヤ教の五大祭の一つである「プリム(くじ)の祭り」の起源を説明する物語である。ストーリーは、ペルシア王アハシュエロス(クセルクセス1世。在位前486~前465)の王妃に迎えられたユダヤ女性エステルとその養父モルデカイの活躍を描いている。ペルシアの大臣ハマンが、モルデカイから敬意を払われなかったのを根に持って、国内の全ユダヤ人の殺戮(さつりく)を計画し、くじによってその日を決める。ところがエステルの働きによって、アダルの月(太陽暦の3月ごろ)の13日、運命の日にハマンはモルデカイにかわって木につるされ、ユダヤ人は辛くも難を免れるという筋書きである。
エステル記は、エステルという聡明なユダヤの1女性が主人公である。旧約の文書には、ルツという名の、異邦人女性が主人公の物語も収められている。他の文書中にも、女性が主役として活躍したり、その機敏な働きでイスラエルの窮地が救われたりする物語が、数多く存在する。古代イスラエルは「父権性社会」であり、女性の立場は弱く、副次的であったと説明されることが多いが、どうして女性が主人公として、あるいは主役として語られる物語が多いのであろうか。
もちろん聖書は、古代の観念をそのまま肯定している訳ではなく、批判的視点を鋭く持つ書物であるから、という説明は正鵠を得ているであろう。確かに、他の文学には見られない人権意識、ジェンダー感覚を有しているということができる。それはやはり人間的視点からではなく、神的な視点をもって、人間や世界の姿を、捉えようとしているからに他ならない。
しかし、女性の活躍する物語には、どれにもひとつの共通のスタイルがあることに注目したい。イスラエルに苦難や危機が襲う時、敵の圧迫や迫害を打破し克服する方法に、「武力」や「軍事力」をもってするのが世間の常である。ところが聖書は、その時にもう一つの対処の方法、やり方があることを告げるのである。このメッセージは、現代の危機管理や安全保障を考える時にも、つねに重要な事柄であることを忘れてはならないだろう。旧約の文学で、女性が用いる力は、共通して「知恵」と呼ばれる武器なのである。
今日の聖書個所では、ユダヤ人に降りかかった禍の発端が記されている。エルテルのいとこのユダヤ人モルデカイの振る舞いが問題を引き起こす。ペルシアの高官ハマンは、自分の威光をかさに、王宮の門の前で、人々にひざまづいて「敬礼」させていたという。しかしモルデカイは、それをまったく無視した。それで悶着が生じる。5節「ハマンは、モルデカイが自分にひざまずいて敬礼しないのを見て、腹を立てていた。モルデカイがどの民族に属するのかを知らされたハマンは、モルデカイ一人を討つだけでは不十分だと思い、クセルクセスの国中にいるモルデカイの民、ユダヤ人を皆、滅ぼそうとした」というのである。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはいうが、最高位の大臣としては、いささか狭量過ぎないだろうか。己のプライドや体面ばかり気にする輩に、委ねられた国政の行方が心配される。
他方、モルデカイもどうか。確かにユダヤ人としての信念と誇り、また律法への遵守、一途さはあるだろうが、それによって民族すべてを苦境に陥れる、というのは如何なものか。なんぼ頭を下げても、ふところは痛まないのである。要はプライドとプライドのぶつかり合いが生んだ悲劇、このモルデカイの頑迷固陋とも言える振る舞いと、これまた傲岸無恥のハマンの制裁によって、大きな危機がもたらされるのである。人間の悲劇は、大抵、下手な意地の張り合い、つまらぬ負けず嫌いから生じる、ということである。
8節「ハマンはクセルクセス王に言った。『お国のどの州にも、一つの独特な民族がおります。諸民族の間に分散して住み、彼らはどの民族のものとも異なる独自の法律を有し、王の法律には従いません。そのままにしておくわけにはまいりません。もし御意にかないますなら、彼らの根絶を旨とする勅書を作りましょう』」。ここにはユダヤ人の冷静な自己分析的視点が表されている。自分たちは「独特な民族」であること、それゆえに絶えず「根絶」(ホロコースト)の危機にさらされていること、を鋭く意識しているのである。
ユダヤ人にとって、モルデカイ的な、不器用な世渡りの術を失うわけにはいかないのである。もしハマンに隷従すれば、自分たちの歴史の歩みは、胡散霧消するのである。しかしそれが「根絶」をもたらす可能性を常にはらむことを、既にこの時代に、ユダヤ人たちは知っているのである。こうした過酷な運命を常に意識しながら、歴史のただなかに生きて来た小数民族の歩みの重さを、私たちはどう受け止めるのか。
ハマンの恐るべき策略と力にどう対するべきか。女は、「武力」や「権力」とは別の、もうひとつの力を用いるのである。それは「知恵」という武器である。「知恵」という言葉はヘブライ語で「ホクマー」、元々、女性名詞であり、なぜ本書が女性を主人公として語るのかが。暗黙の裡に示されている。つまり、ユダヤ人は自分たちの生き延びる道を開く力を、「知恵」に求めたのである。「知恵」によって、諸々の危機の時代を生き延びる、これは現代人にとっても、最重要な課題ではないのか。
エステル記には、「神」あるいは「ヤーウェ」の文字が一語も記されていない。だから巻物を異邦人に譲っても支障がない、と判断したのだろう。しかし、「神などいない」、というような悲惨さの中にも、神から与えられる「知恵」によって、踏みとどまることができる、というのが、本書の隠されたメッセージではないだろうか。