神学校日礼拝「神に仕える者」ローマの信徒への手紙13章1~10節

こういう思い出話を耳にした。高校時代、朝の会前に担任教諭の機嫌を同級生と予測するのが日課だった。担任が教室に近づく際の足音が小刻みで軽やかだと上機嫌。小声で「セーフ」と言い合った。履物を床にこする足音がしたら要警戒。逆鱗(げきりん)に触れないよう押し黙ってやり過ごした。この足音による機嫌予測の精度は高く、歩き方には日ごとの感情や体調がよく表れると感じた。そんな経験もあってか、今でも「歩行観察」をする妙な癖がある(9月22日付「北斗星」)。学校とはそんな能力も養う場所か。

私にも憶えがある。クラスの中に、必ず一人や二人、担任教師の物まねが上手い生徒がいて、学校の隙間時間に皆の前で披露してくれる。ひとり一人の教師のしぐさ、そぶりの特徴を実に巧みに捉えていて、笑い転げることもしばしばだった。よくもまあ一挙手一動作を「観察」していると感心させられた。ただ、だからと言って、担任教師を小馬鹿にしたり、揶揄したりということではなかった。しかし、三歩下がって師の影を踏まず、とか、その前では直立不動で、というものでもなかった。ある意味で、担任は自分たちに最も身近な「上に立つ者、権威者」であった。

こういう文章がある。権威は、そもそも自分で主張するものではありません。どんなに自分で主張しても、周りの人が認めてくれなければ、権威は権威にならないでしょう。あるものに内在的に備わっていて、人々が思わず「なるほどなあ」と納得してしまう力。略して 「なるほど力」---これが権威です(森本あんり「まことの権威」)。

「なるほど力」こそが、「権威」の実態である、と説明されるのであるが、どうだろうか。普通、権威というと、字ずらからして「厳めしい、威圧的」なイメージを髣髴とさせるし、反対することや批判することを許さない恐ろしい存在として、受け止められることが多いだろう。先ほどの文章は、「なるほど力」に続いて、こう記されている。政治学者たちは、しばしば「権威」 と「権力」とを区別します。権力は、人々が納得しようとしまいと、否応なく何かを実行することのできる力です。平たく言えば、「言うことを聞かせる力」です。必要とあらば、むりやりにでも言うことを聞かせる力。たとえば、「国家権力」は、そのような強制力やそのための装置をもっています。

今日の聖書個所は、「権威」が論点となって、議論が展開されている。1節「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」。良くも悪くも、パウロの個性が良く表れている言葉である。パウロの悪い癖として「上からの物言いで」あるいは「有無を言わさず」という」姿勢がほの見える。確かに、名だたる地中海世界の盟主、ローマ皇帝のおひざ元、ローマの町のキリスト者に送られる手紙の一節である。気合を入れて、メリハリを利かせて、強く語らなければ、と肩肘を張っていることが読み取れる。下手なことは言えない。ここはひとつ、ローマへの忠実をひとまずは表しておかねば、という計算も働いていることだろう。

但し、パウロは儀礼的に、保身的に、「権威」あるいは「権威者」への忠実を語ろうとしているのではない。4節「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです」。ここでパウロは、権威とは「神に仕える」ことであり、権威者とは「神に仕える者」だと主張しているのである。つまり、「神に仕える」この1点を抜きにして、「権威」は成り立たない、いくら強大な武器や金や、軍隊を手の内にしていようとも、それがすべて自分の思い通りにできるとしても、もし「人間」や「自分」に「仕える」のならば、およそ「権威」等とは無縁なものなのだ、というのである。権威は、決して恐怖によって、強制力によって人に「言う事を聞かせよう」とすることはない。必要とあらば、むりやりにでも言うことを聞かせる力で、人間を支配したとしても、人間はいう事を聞くふりはするだろうが、真実に「従う」ことはないだろう。「なるほど力」しか、人間を動かすことは出来ない。そして「なるほど力」は、「神に仕える」ことによって、初めて現れ、リアルになる力なのだとパウロは手紙の根底で主張しているのである。

今日は「神学校日・伝道献身者奨励日」の礼拝である。神学校とは「神に仕える人」を育てる教育を行いう機関、「伝道献身者」とは、「神に仕える人」のことである。この年度の始め、教団の常議員会で「日本基督教団の教師論」が承認された。それによれば「信仰告白」、「教憲・教規」に基づいて「教会に仕える」者が、私たちの教会の教師なのだという。確かにそれはその通りであろうが、その上で「仕える」ということが一体何を指し示しているのか、何が求められているのか、もう少し具体的に議論されねばならないだろう。

信仰告白には「愛のわざに励みつつ」の一文が語られているが、今、ここで「愛のわざ」が何を意味しているかを、語りあって行かねばならないだろう。

インドのコルコタにある「孤児の家」 には、マザー・テレサの次のような言葉が掲げられているという。「仕える」ということが、具体的にはどういうものであるかを考える課題を提起するものだろう。「人々は、理性を失い、非論理的で自己中心的です。それでも彼らを愛しなさい。あなたがしたいい行いは、明日には忘れられます。それでもいい行いをしなさい。あなたが歳月を費やした建物が、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも建てなさい。ほんとうに助けが必要な人々ですが、彼らを助けたら、彼らに襲われてしまうかもしれません。それでも彼らを助けなさい。もっている一番いいものを分け与えると、自分はひどい目にあうかもしれません。それでも、一番いいものを分け与えなさい。……」(ルシンダ・ヴァーディ編、猪熊弘子訳『マザー・テレサ語る』)。

「神に仕える」ということの、マザー・テレサらしい呼びかけがここにある。「だがしかし」と私たちは正直に思ってしまう。「誰がこんなことが可能なのか」。この言葉には、ほんとうの「権威」がどこにあるのか、「権威ある者」の姿とはどういう者かが、明白に語られている。しかし「こんなこと誰ができるのか」と思わざるを得ない。ただ、ひとりのあのお方だけが、このように生き、このようにして十字架にかかり、そのように死んで行かれた。ただ主イエス、その方の生き方を想起するばかりである。つまり、あの方以外には、だれもまことの「権威」を表すことの出来る者はいないのだ。どんな王も政治家も、大統領も、まことの権威など表すことの出来る者はいない。ましてやローマ皇帝をも、そのようである。思わず「なるほどなあ」と納得してしまう力。略して 「なるほど力」---これが権威、と語られるように、私たちは、主イエスの権威の後ろ姿を見て、何とかその後にすがって行くしか、術はないであろう。

しかし、私たちの間に、目には見えないが真の権威をもっておられる方が、今も生きて働いてくださっている。その方の働きを心に刻み、口に語り、へりくだり、日々歩むことこそ、私たちにできる「仕える」生き方だろう。