祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書1章46~56節

皆さんは、辞書・辞典の類を使われるか。国語、英語、聖書等、今ないものはないほどさまざまな辞典がある。中には世の中にどんな辞典があるかを調べる辞典、というのもある。睡眠導入剤の代わりにするという人もいる。言葉の羅列で脈絡がないので、眠くなったらすぐに読むのを辞められる。結構重いので、筋トレにもなる。

『ホメネギ辞典』というのをご存知か。「褒めるところがない」という人に、何事も物は言いようというもの、ホメネギ言葉に言い換えましょう、というのである。曰く「褒めて労う」という塩梅の言い換え辞典である。「言い訳がましい」と言ってしまえば、けなし言葉となって実も蓋もない所を「頭の回転が速い」という具合。以下「心の狭い」は「こだわりのある」、「うそつき」は「口先のマジシャン」。「理解できない」は「並々ならぬ器」という具合。このように「ポジティブに言い換えるのである。そのようにして相手を気遣い、人間関係で無用なトラブルを避けようという。この辞典、丁寧にも意味の定義づけから、用例まで記されている。「音痴」とは「個性あふれる音楽の感性」のことで、語義の説明は「既成の音階やスケールにまったくとらわれることのない、その人物の世界観に裏づけされた、オリジナルな音楽の表現」と説明される。用例として「あなたとカラオケ行くのはじめてね、なんの歌を歌っているのか分からなかったけど、個性あふれる音楽の感性の持ち主だということは分かったわ」。しかしこんな表面的な取り繕いで、本当に人間関係が円満にいくのだろうか、という疑問が残るのだが。

現代人は(もちろん古代人も)余程、言葉の使い方に苦労しているのだろう、先に言葉の「言い換え」について話した。さらに語順によって聞き手の印象が違うから、気をつけようとも勧められている。「一生懸命努力した、しかし失敗した」というのと、「失敗した。あんなに努力したのに」では受ける印象が随分違うというもの。前者は「努力はした」と言う事実が残る。後者は「結果」がすべてという印象になる、というのである。「まだ半分ある」のか、「もう半分しかない」のか、皆さんはどちらの性分であろうか。

今日は「マリアの賛歌」を取り上げる。従来「マニフィカート、マグニフィカート」と呼び習わされているフレーズである。ラテン語の聖書は、歌がこの言葉から始まるゆえに、こう呼ばれて来た。「主をあがめ」、「あがめる」とは「大きくする」ということ、「マグ、マグナ、マグヌス」は「大きい」という意味である。「マグカップ、マグナカルタ、フォッサマグナ」、皆「大」という意味合いを含んでいる。ある人が、「神とは何か、あなたの頭で考えて、これ以上大きなものはない、というそれがあなたの『神さま』です。ところであなたの神は小さ過ぎます」。世俗ではよく「神」とは結局「自分自身の願望の投影」だと語られる。残念ながら多くの場合、そうである。

しかし虚心坦懐に聖書を読めば、神は人間の願望と全く別のところにおられる「他者」である。人間の思い通りにはいかない、私の思いを超えたはたらきをなさる方である。イエスの十字架にそれは端的に表れている。神は、ひとり子イエスの十字架での絶望の叫びに、何も応えず見殺しにする神である。そして何一つ語ることなく沈黙のまま、3日目にそのひとり子を「復活」させられる方である。見捨てる神が、実に救う神なのである。そして私たちの人生にも、そのようなはたらきをされる方である。「私は神様を大きくする」マニフィカート、これがマリアの賛歌の歌い出しである。神様を大きくし、自分自身を小さくする、そうすると神様は実に豊かに働いてくださるというのである。そういう祈りをしてみようとは思わないだろうか。

クリスマスによく歌われる讃美歌175番(讃美歌21)は、『マリアの讃歌』という表題にある通り、今日のテキストを基に作られている。2節「数に足らぬ、わが身なれど、見捨てず」と詠われるが、元の讃美歌では「数に足らぬ、はしためをも 見捨てず」となっていた。「はしため」という用語が問題である。ギリシア語では女奴隷、召使という意味の言葉で、「はした」が「半端者」という意味から生まれている用語で、差別的に用いられてきた不快語だから、忌避されたということだろう。しかしそれ以上に、ここには文法的な読みの問題がある。

新共同訳はこう訳している。48節「身分の低い(正確には「いやしい」)、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。何が問題化と言えば。言葉の順序である。こう訳されるべきである「主は、このはしための、いやしさに目を留めてくださった」。ただ「はしために、つまり身分の低い、奴隷のような下賤の者を哀れんで、目を留めてくださった」というのではない。この私の持つ「いやしさ」に、神は目を留めて、省みて、目を反らされなかった。ラテン語聖書、ルターの聖書翻訳はじめ良心的な聖書翻訳は皆、そのように訳している。残念だが新共同訳は(口語訳も)、どうも聖母であり聖女であるマリアに「いやしさ」があると認めることができなかったようだ。しかし彼女が「このはしためのいやしさに」と語るとき、わたしたちの心は、マリアと繋がれるのである。

要は、神と出会う場所はどこか。神は私たちのどこに声をかけてくださるか、ということである。表立って人に言えない、他人の目から隠しておきたい、こころの深み、いやしさ、醜さ、どうしようもなさ、そういう人の目に表立ってあらわすことのでいないところで、主は出会ってくださるのではないか。人に誇れる、自慢できる、自信の溢れたところで、イエスは語りかけて、やって来てくださったのか。イエスの来られたところは、光り輝く絹の布団ではなく、家畜の臭いにおいのする飼い葉桶ではないか。もっともいやしい場所に主は来られるのである。そしてもっともいやしい場所とは、私の心の深いところにあるいやしさややましさではないか。人を恨む、人をうらやむ、愚痴を言う、人を軽蔑し、自分を蔑む、恵を数えないで不満を数える、そういういやしさに神は目を留め、そこを省み、やって来られる。そのいやしさを解きほぐしてために、そういういやしさに自分のすべてが覆い尽くされてしまわないように、お出でくださるのである。

主は飼い葉桶に宿られた。箴言に「家畜がいなければ、飼い葉桶はきれいなままだが、収穫を与えるのは家畜の力」というみ言葉がある。人間には、人に見せられない暗闇や影を宿しながら生きて行く。それを殊更に恥じる必要なないであろう。主イエスが私の心の深みの深みにお出でになり、そこに来られて、出会ってくださるのであるから。