「牛舎の子牛のように」 マラキ書3章19~24節

アドヴェント第三主日を迎えた。この聖日は、カトリック教会では「ばらの主日」と呼び慣わされている。但し、主イエスの到来を待つ「待降節」だけでなく、主のご受難、十字架の道のりに思いをはせる「受難節(レント)」の第四聖日にも、同じ名称の祝日を設けている。この日には、司祭は「紫色」の式服ではなく、「ばら色(ピンク)」の祭服を身にまとって、お勤めを行なう。キリスト教で「紫色」は、「悔い改め」の意味を表している。心を低くして、砕かれた心で、粛々と日々の務めを行なう中に、どうしてそのような明るい祝日が設けられているのか、ある神父さんがこう説明している。「本来(の典礼色)は紫ですから、準備のとき、節制のとき、犠牲を捧げるときを表す色なんですけど、そんな準備の日々に、あんまり自分を責め過ぎたり、犠牲を払い過ぎたりしないように、本来の目的である『喜びに向かう』ということを忘れないようにするために、こうしてバラ色の祭服を着て、『喜びを忘れていませんか?』って示すんです」(晴佐久昌英)。

やはり私たちの向かう先、目当ては「神の喜び」にある。だからどんなに真面目で厳粛な中にあっても、肝心の「喜び」が忘れられると、「福音」が消えてしまい、信仰の本末転倒になるだろう、というのである。いかなる悲惨や嘆きの只中にあっても、そこに「喜び」をもたらされるのが、神のみわざではないのか。クリスマスの告知は、まさにそこに集中していると言えるだろう。夜、野宿して羊の世話をしていた羊飼いたちに、天使は突然現れて告げたのである。「見よ、すべての民に伝えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」と。アドヴェント第三主日に点されるろうそくは、「喜び」と名付けられている。

先週、羊の話をしたが、今日は「牛」が登場する。家畜の中で「牛」は特別な動物である。財産の第一のもの、高価で取引され、身体も大きいから、飼育にもひじょうに手間や経費がかかる。しかし農耕に力の強い牛が用いられることで、生産量は大きく向上する。鉄器の使用と牛による耕作によって、聖書の世界では、食料の生産量が飛躍的に増大したと考えられている。

普通の農民にとって,多頭飼いはできないその大切な家畜に、子どもが生まれる、何という喜ばしさであったろうか。救い主の誕生と重ね合わせてイメージされたことは、よく理解できる。そしてその喜びは「あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る」と語られる。微笑ましい光景である。この個所はアドヴェント、あるいはレントで必ず読まれる聖書テキストの一つである。確かに希望溢れる章句であろう。20節「義の太陽が昇り」「子牛のように躍り出て飛び跳ねる」。冬の寒く暗い、光の乏しい季節に、子牛が誕生する。まだ外の世界は寒く、生まれたばかりの小さな生命にとっては、過酷な世界である。食べ物となる草も、まだ萌え出でず、枯野が拡がっている。

こんな話題を聞いた。とある牧場で、子牛が誕生した。「子牛が生まれたというので、迎えに行くと、餌桶(飼い葉桶)の中でスヤスヤ寝てる〜。餌桶には、分娩後のお母さん牛が食べる乾草が入れてあったけど、心地よかったのかなぁ〜。なかなか起きませんでした。癒されます♪」生まれたばかりの子牛の健康を心配しつつ、じっと小さな命、といっても40キロの体重、を見守る飼育係の暖かなまなざしが伝わって来るようだ。主イエスが誕生された時に、家畜小屋であったから、飼い葉桶がベッド代わりになったことが記されている。人間の赤ん坊は、やはりそういう所に寝かされることは余りなかったろうが、犬猫も少々変わった場所がなぜかお気に入りで、気持ちよさそうに寝ていることがよくあるから、家畜はみな、結構そういう行動を取るのかもしれない。主イエスは、人間の心は素より、家畜の心も十分にお分かりになっている、というのは深読みか。

しかしやがて季節は廻り、輝く暖かな太陽が昇るようになる。春がやって来たので、それまで暗い檻に閉じ込められていた子牛たちが、外に連れ出され、野に放たれるので、日差しの中でうれしそうに、ぴょんぴょん飛び跳ねる。その有様が、印象的に描かれている。まことにクリスマスにふさわしい章句であると思う。

但し、この段落の文脈をたどると、必ずしも明るいヴィジョンが語られているわけではないことが知れる。このテキストは「主の日」つまり神の裁き、終末の時の有様が告げられている個所なのである。20節をカッコに入れて読むなら、随分厳しい告知がなされていることが分かる。「炉のように燃える火、すべて燃え上がらせ、根も枝も残さない。神の足下で、灰になる」。私たちは「裁き」というと「裁判」からの連想だろうか、すぐに「処罰」をイメージする。「罪」に対して、いかほどかの「罰」が与えられるのか、「裁き」であると。

旧約では、「神の裁き」は、金属精錬のための炉に喩えられる。金銀や銅を練り清め、純度を高めるための道具である。現代では、昔ながらの鉱物資源を採集する「自然の鉱山」ばかりでなく、「都市鉱山」という埋蔵資源がある。古くなり大量に捨てられた携帯スマホやパソコン、電化製品のゴミには、ほんのわずかだが微妙な貴金属が使われている。それを溶かし出して、再び使おうというのである。天然の鉱石にも不純物が多く含まれている。それを一度高温の炉で溶かし、不純物を燃やし、余計なものを取り去り、価値あるものをより分けるのである。

そのように、人間が一生、生きて来て、自分の人生の真に価値あるものが明らかにされる時が、いつかやって来る。その時こそ「神の裁き」の時である。「何がほんとうの価値か」は、人間の目、とりわけ自分自身の目からは隠されており、分からない場合が多い。それを明らかにするものが、神の裁きなのである。しかし私たちは正直言って不安を覚える。そもそも貧しいこの私の人生に、胸を張って何ができたとは言い難いこの生涯に、果たして価値があるものなど、あるのだろうか。

マラキ書は、旧約の諸文書中、預言書の掉尾に置かれている書物である。預言者のマラキは、文書の置かれている位置からも他の預言者から比べて、最も遅い時代、「バビロン捕囚」時代に活動した預言者である。捕らわれて、すべてを奪われてバビロンという異国に住むようになった人々へ、神の言葉を語った預言者であるのだが、その時の人々の信(心)的状況について、興味深い記述がある。直前の3章14節にこうある。「神に仕えてもむなしい。何の益があろうか」、真面目に、誠実に生きても、何の希望があるかというのである。却って「高慢なものは幸い、罰を免れているから」。この世は要領よく上手くやった者勝ちではないか。「信じて生きても空しい」これは実に人間のもっとも深刻な課題を表す事柄なのである。ここには、ただ「神」だけが問題なのではない。人間の「信」そのものの虚しさ、偽りの表明だからである。人間と神だけでなく、人間と人間の絆、信頼やふれあい、共に、ということも、すべて空しい、つまらない、無益だ、価値がないというのである。所詮、すべてが「自己責任」ではないか。俺が、お前が悪いのではないか。そういう中で営まれる日々の生活、その労苦や努力に一体、何の価値があるというのか。神への不信は、実のところ、自分自身の人生に対する不信、空しさの裏がえしのである。どこによいものが、何もよいものがない。

インドに伝わる寓話にこんな物語があるという。「毎日、井戸から水を運ぶ仕事をしていた使用人がいた。彼は二つの素焼きのつぼを、天秤棒の左右につけて肩にかけ、仕えている主人のために毎日水を運んでいた。生憎、片方のつぼは、ひび割れがあったので、いつも運ぶうちに、水が半分こぼれてしまっていた。ひび割れた方のつぼは、情けなく思い、いつもみじめな気持ちを抱えていたという。そのように何年かが経ち、ひび割れつぼは、水運び人に言ったそうだ。『私にはひび割れがあって毎日水が半分こぼれ、あなたの役に半分しかたっていません。それがとても辛いのです』。それを聞いて水運び人は、優しく言いったそうである。『今度、水を入れて帰る時に、道端をよく見てごらん』すると、毎日通る道には、美しい花が咲いていたというのである。『ほらね、道端の花は、お前の側にしか咲いていないだろう。僕は君の通る方に花の種をまいておいたんだ。毎日そこを通るたびに、ひび割れがあるおかげで、お前は種に水をやり、花を育ててきたんだよ。私はその花を切って、毎朝、ご主人の食卓に飾ってきた。君のおかげでご主人は、毎日きれいな花を眺めながら食事を楽しむことができるんだよ』。

先ほどの寓話、ひび割れがあって水が漏れる「土の器」とは、人間を表すのに何とふさわしい表象であろう。ひび割れを見つけるとき、それを恥じたり、他のもののひび割れを責めることがある。何とかしてひび割れをふさいで、見えなくしようと試みる。どうも中に何か入れてこそなんぼ、ひび割れは都合が悪いと、考えるからである。ところが器は入れるだけでなく、そこから外に注ぎ出す働きをするのである。ひび割れてしまい、そこから自然に他をうるおす水が注がれたら、何という幸いであろうか。知らず知らずに道端の花を咲かせ、その野の花が、未知の誰かの食卓を飾るとしたら。「ばらの主日」の「ばら」は、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつ程にも、着飾っていなかった」と主イエスが言われた、あの「野の花」のことである。

先ごろ、こんなニュースが伝えられた。「ウクライナのクリスマスは12月25日と、ロシア正教会流に1月7日に祝うのが一般的だった。だが、『脱ロシア』の一環として12月25日だけとするよう今夏、法律で改められた」。聖書には、クリスマスの日時は記されていない。歴史的には、どちらの日付もそれなりの理屈が込められている(簡単に言えば、用いている「暦」の違いなのだが)。「クリスマス」もまた政治や国際の力を被ることに、いささかの違和感を感じる、しかも「法律」云々となると、ますますその感は強くなる。しかし元はと言えば、家畜の「飼い葉桶」から始まるのである。その貧しく汚い器が、赤ん坊の主イエスの身体をあたたかく受け止める縁となった。破れとひび割れが、主の栄光を輝かすのである。