聖画の主イエスの髪型は、大抵、長髪で描かれている。最近の見解によれば、当時の一般的なユダヤ人男性は、髪を短く刈り、ひげも短く整えるのが普通だったとされているので、主イエスもそういう風貌をしていた可能性が高いと考えられる。バプテスマのヨハネは、「らくだの毛衣を着て、革帯を締め」とわざわざ記されるように、他と違った目立つ格好、容姿だったならば、何らかの言及がなされているだろう。「長髪」として描かれる理由として挙げられるのは。「ナザレのイエス」という呼び名が、「ナジル人」を連想させた(混同された)からというものである。ナジル人とは、神に自ら誓願を立てた人のことで、「髪を剃らず(長髪)」、「ぶどう酒を飲まず(禁欲)」、「穢れ(死者)にふれない(清浄)」で生活するという異様な風体と浮世離れしたあり方で、その実を示したようである。旧約では士師記に登場する英雄、怪力のサムソンが「ナジル人」として有名であるが、新約ではパウロが、一時期、そのような誓願を立てていたことが知られている(言行録18章18節)。人生のある時期にそのような特別な誓願を行うことは、古代の宗教人にとってままあることだったのだろう。
さて、今日の聖書個所は、「デボラの歌」と称される叙事詩の部分である。このテキストは旧約の中でもイスラエルのパレスチナ土地取得、その直後の歴史を再構成する貴重な資料、伝承であると見なされている。旧約諸伝承の最古層、最も古い言い伝えの部類に属するとも評価されている。歌われている内容は、女預言者であり士師のひとりであったデボラ、4章5節には、「彼女はエフライム山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめやしの木の下に座を定め、イスラエルの人々はその彼女に裁きを求めて上る」のが常であったと伝えている。彼女は北の有力部族エフライムの民の相談役、リーダーとして手腕を発揮していたと思われるが、この人物の英雄的な業績を讃える事績を中心に、そこでの出来事の消息を物語るのが、「デボラの歌」である。これに並行する4章の散文によって記された歴史伝承は、5章の韻文(叙事詩)を手掛かりに敷衍し再構成されたと思われるので、「歌」の方がより出来事のリアルさを伝えるものであろうと推定される。
この歌から推し量って知れることは、イスラエル民の土地取得後まもなくの頃、彼らはカナン(パレスチナ)に根を下ろす際に、(理念化された)12部族として、様々な地(先住民の隙間)に分散して定着を行ったと推定されるが、ヤーウェ・イデオロギーによって結ばれた部族連合によって、絆を保っていたと考えられている。それは非常にゆるやかな結びつきで、いずれかの部族が周囲から脅威を加えられたような際には、全部族が一致してその危機に対処する、という大義名分があったものの、必ずしもその通りには履行されなかったことが、この歌の伝承内容から読み取れるのである。即ち、カナンの王ヤビンの侵攻に対して、共に抗戦すべく馳せ参じたのは6部族(エフライム、ベニヤミン、マキル、ゼブルン、イッサカル、ナフタリ)のみであり、他方、ルベン、アシェル、ダン、ガドは参戦しなかったことが語られ、南方系の有力部族ユダは、その名すらも言及されていない。この背景には、パレスチナの北と南に定着した部族間に、それぞれ緊密な関係が構築されていなかったこと、また各々の定着地特有の、そこに付随するさまざまな利害関係が絡んでいたことが了解されるのである。イスラエルは決して信仰をひとつにする堅固な一枚板の連合体ではなかったということである。
しかし、そうした土地取得後のイスラエルの実情についての情報よりも、この「歌」が伝える極めて大胆な証言に目を引かれるのである。もちろんその筆頭は、女士師のデボラの業績であり、彼女の勇猛さ、豪胆さによって、頼りない士師バラクはカナンの王に勝利し、イスラエルは安寧を得るのである。但し、それと共に語られる2人の女たちの振る舞いにも注目させられるのである。もう一人は、カイン人ヘベルの妻ヤエル、彼女の事績はこう記される。25節「水を求められて/ヤエルはミルクを与えた。貴人にふさわしい器で凝乳を差し出した。彼女は手を伸ばして釘を取り/職人の槌を右手に握り/シセラの頭に打ち込んで砕いた。こめかみを打ち、刺し貫いた」。謀殺とも言えるやり方で、カナンの将軍を葬り去るという大胆な振る舞いには、いささかぎょっとさせられる。「カイン人(ケニ人)」は、一説にヤーウェ宗教の起源として、ミディアンで祭司であったエテロを通してモーセに伝えられたとも考えられているが、その絆に連なるヤエルが、ここで重要な役割を果たしているのも頷ける。そしてこの両者とは対照的に語られているのが、「シセラの母」(とその女官たち)である。彼女は息子シセラがなかなか帰ってこないのを心配して、「勝利の略奪物(イスラエルの女ら)を分配しているから(30節)」と家父長的な論理に搦めたとられたアンコンシャス・バイアスに陥っている哀れな様子が語られる。
この叙事詩に詠われる一番の主張は、これら三方の立場に身を置く女たちの振る舞いを通して語られる、逆説的な救いの論理であるだろう。イスラエルの勝利は、士師バラク(男)によって成し遂げられるのでなく、デボラ(蜂)によってもたらされるのである。さらに、カインの末裔であるヤエル、イスラエル12部族から見れば、正統な系譜ではなく、外様とも言える立場にありながら、イスラエルへの共鳴者として、その救いに裏で決定的な役割を果たすのである。他方、家父長制に裏打ちされた既存の価値観(カナンの論理)に縛られて生きる「シセラの母」は、空しいヴィジョンに拘泥するのみなのである。それもまた神の救いの出来事と対照的に、ドラマティックに描き出されている。
「デボラの歌」において詠われるこの逆説的な神の救いの教説は、この歌だけに留まらず、ずっと後の時代も、イスラエルの神学に、連綿として受けつがれてゆくことになる。その思想は、ルツ記、エステル記、ユディト書等の女性を主人公とする物語文学へと継承され、さらに新約で「マリアの賛歌」として展開されて行く。こうした聖書文学上の連関は、水面下で不変の生命を保ち、人々に力を与え続けたということであろう。
この歌の冒頭は、「ナジル人」への言及から始まる。2節「イスラエルにおいて民が髪を伸ばし/進んで身をささげるとき/主をほめたたえよ」。ナジル人は、自ら進んで神に献身した者たちなのである。性別、資質、力量、立場、人種を問わず自らを献げることのできる人々が、救いの出来事に参与するのである。遥か時代を下っては、新約に登場する人々、マリヤを始め、使徒たちもまさしくそのような者たちであったし、他ならぬ主イエスは、「そんなところから良いものが出ようか」と酷評された「ナザレの人」であった。主イエスが長髪で描かれる、というのも、「デボラの歌」を通してみるなら、頷けることであろうか。