こういう話がある。「ある高齢の婦人が、スイミング・スクールに通い始め、練習に余念がない。コーチが一生懸命に練習している理由を尋ねると、こんな答えが返って来た、『三途の川を泳いで渡るためにね』」。もっともこの話には、さらに先があるという。「お姑さんを迎えに来たお嫁さんが、コーチに耳打ちして曰く、『ターンの仕方は教えないでくださいね』」。
黒人霊歌『深い河“Deep River”』はこう詠われる。「深い河よ、主よ、私の家はヨルダン川の向こうにある。深い河よ、主よ、私は渡って、あの野営場へ行きたい。ああ、あなたも行きたくはないか、あの喜び(福音)の集いへ。すべてが平和に満ちた、約束の地へ」。過酷な毎日の生活を離れて、ヨルダン川の向こうにある神の約束の地に行きたい、そのためには「深い河」を越えてゆかなくてはならない。安息と喜びに満ちた天国を希求する、祈りが詠われている。ここで「ヨルダン」は「深い河」として象徴的に語られているように、パレスチナの実在の河川ではなく、「深い」、つまり容易に渡ることが出来ない断絶や隔絶を意味されていることに、この歌を詠い継いでいた人々の苦悩と嘆きを読み取ることができるだろう。
これまで「河川」は、地域や領域の境界として位置づけられてきた。流水が天然自然の障害物となって、道行く者の足を押しとどめるからである。その不便を解消するために、河川を越える「橋」を架けようとするのは、理の当然であるにせよ、建設には技術的経済的、あるいは治安面に大きな負担が強いられる。おいそれとどこでも架橋はできず、ごく限られた場所に設けられるのが、関の山である。もし橋のない所を渡ろうとするなら、浅瀬を探り、流れをうまく越えて行く算段や知恵が必要となって来るだろう。それがこの世とあの世の境にも適用されて観念化されたのが、「ヨルダン川」であり、「三途の川」である。さらに人生論的にも、成長や成熟のプロセスについて、「川を越える」隠喩が用いられて語られることがある。それは滑らかにまっすぐ平たんになされるのではなく、どこか橋のない川を、流れに抗って、あるいは押し戻されそうになって、手足をばたつかせながら、ようよう向こう岸にたどり着く、という人生行路についての比喩である。
創世記のヤコブ物語で、「ヤボクの渡し」の場面が、まさしくそれであろう。功成り名を遂げて一家を構えたヤコブが、長い時を隔て故郷に帰って来る。そこには確執から因縁の間柄となった兄エサウが待っている。やはりヤコブはすんなりと故郷には戻れない。故郷を隔てる対岸ヤボク川(ヨルダン川の支流)のほとりで、彼は神の使いと格闘するのである。一晩中、人ならぬ者と相撲を取り、やがて夜が明ける。挌闘によって彼は足を痛め、足を引きずるようになる。「うまく歩けない」とは、未だ歩くことのできない嬰児に戻ったということであり、彼に新しい人生の歩みが始まったことの象徴表現である。それでようやく彼は兄エサウと対峙する、否、(まことの)故郷に帰ることができるのである。人生には、越えなくてはいけない「川」がある。まさに「恩讐の彼方に」であろう。
今日の聖書の個所は、黒人霊歌『深い川』の歌詞のもとになったテキストであるだろう。川の向こうに約束の地が拡がっている。ヨルダン川を越えたはるか向こう側である。4節「これまで一度も通ったことのない道」と語られるように、生きる時にたどる途というものは、予習や復習というような事前学習ですべて何とかなるような質のものではなく、「一度も通ったことのない道」なのである。学習の効果と言えば、「あれだけやったのだから大丈夫」、というような自信や思い込みであるだろう。だから何か目印になる縁(よすが)があれば、随分、手がかり足がかりになる。「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」そうすれば「あなたたちの行くべき道は分かる」というのである。
ところでここで「契約の箱との間には約二千アンマ(訳1キロ)の距離をとり、それ以上近寄ってはならない」と戒められていることが興味深い。やはり歩くのも、流れを渡るのも、おのおの、ひとり一人なのである。人生の歩みは誰かの「神輿」に乗って易々行くことはできない、ということだろう。しかし遠くても「めあて」があることは、ありがたいことだ、学習の意味がここにある。そこでは「何をめあてにするのか」が、鋭く問われるのである。
もう一つのポイントは、モーセの後継者ヨシュアに対して語られる言葉である。「あなたは、契約の箱を担ぐ祭司たちに、ヨルダン川の水際に着いたら、ヨルダン川の中に立ち止まれと命じなさい」。そしてそこで神の言葉を民に告げるように命じられるのである。「ヨルダン川の中に立ち止まれ」。
パレスチナを二分する川である「ヨルダン川」、この川は遥かヘルモン山に源を発し、ガリラヤの湖を形づくり、さらに流れ出て下り、死海にまで注いでいる。「ヨルダン」とは昔の言葉で「水の流れる川」という意味であると言われる。豊かな水がほとばしり、押し流して行く奔流の中に、神の臨在の証、「契約の箱」がとどまって、そこでみ言葉が告げられるという。13節「全地の主である主の箱を担ぐ祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つであろう」。これは出エジプトの出来事のクライマックス、紅海渡渉の時の奇跡の再現である。これもまた実に人生論的な隠喩の物語であるだろう。道のない所、一度も通ったことの場所に、神は道を開かれ、道を備えられるのである。
「ターンの仕方は教えないでくださいね」、とは言うものの、人生に戻り道はないだろう。やり直すことはできても、それは今までの行路を全く白紙にして、ないものとして歩むことはできず、それまでの古い自分(重荷)を負いながらの歩みとなるだろう。そればかりに気を取られれば、奔流に押し流されるばかりか、小さな流れにも足をすくわれる。ひざ下の流れでも、水の力はすさまじく、容易く足を取られ、もんどりうつのである。「水がせき止められ、ヨルダン川の水は、壁のように立つ」、川の流れを見ている限り、水ばかりで道など見ようにも見えないのが本音であろう。それでも恐る恐る水の中に足を踏み出し、立つ時に、そこにも足を置く地があることを知るだろう。その一歩に働かれる神の御手がある。「水がせき止められ、壁のように立つ」、神の言葉が「心の防波堤」となってくださる。要は、心の堤防の崩壊、破綻を、どう防ぐかなのである。私がうず高く堤防を築くのではない、神自らが、人生の防波堤になってくださるのである。