祈祷会・聖書の学び 申命記30章1~12節

あるお年寄りが主治医に訴えた。「こんなにたくさんの薬を飲めと言われても、薬だけでお腹がいっぱいになって、ご飯が食べられません」、すると医師、「私も皆さんにたくさんお薬を出さないと、ご飯が食べられなくなります」。

「良薬は口に苦し」という諺がある。若い時、親が沢山の薬を飲むのを、あきれた思いで見た記憶があるが、今、それがわが身のこととして降りかかってきている。子どもならばなだめすかし、あるいは「お薬ゼリー」などの方策を用いて何とか飲ませるのだが、殊、言葉の通じない動物(ペット)に飲ませるのは一苦労である。えさに混ぜても、巧みに異物だけをより分ける。いつもの餌と味が違えば、食べようとしない。かと言って無理やり口に押し込んでも、引っかかれ噛まれるのが落ちである。せっかくの処方の薬も(値段が張る)、無駄になるということも。

「薬」は、病気からの回復のために、有効な働きをしてくれる有難い品である。かと言ってたくさん飲めば飲むほど健康にいいかと言えば、やはりそこは「さじ加減」、適量を守り、適切な処方がなされねばならない。「薬」は良いものだが、同時に劇毒物と似たような性質を持つものも多い。さらに効果を得るには、服用者の自覚や意識の注意も求められる。

さて先週に続いて「申命記」のみ言葉に目を向けよう。その中核部分は、ヨシヤ王行った改革のシナリオとなった律法の記述であるが、後に、加筆や訂正されて現在のかたちになり、その最終的編纂はバビロン捕囚期においてなされたと考えられている。今日の個所は、やはり「バビロン捕囚」の体験が色濃くにじんでいると思われる章句が散見される。

1節「あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で」、3節「あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から」、 4節「たとえ天の果てに追いやられたとしても」、このように「追いやられる」、「散らされる」という言辞が何回か繰り返されていることから、これを聞く民が、そのような状態に現在置かれていることが前提とされていると推測される。南王国ユダの主だった人々が、バビロニアによって「捕囚」される以前一世紀半ほど前に、北王国エフライムの民もまた、アッシリアによって「捕囚」の憂き目を見たが、「失われた十部族」と後に呼ばれるように、追放され捕囚された異郷の地で彼らは埋没し、自己同一性を失って民族としては胡散霧消したことが知られている。その轍を繰り返さないために、こうした記述、律法が記されたという意図が読み取れるだろう。

さて、申命記27章からここまでの文面では、「祝福」と「呪い」を巡って様々に議論が展開されている。1節「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み」、「祝福」と「呪い」が、目の前に置かれている、あなたがたはどちらを選ぶか、と問われている。「祝福」と聞くと、「繁栄、成長、幸運、長寿」等の「幸い」を想起させ、「呪い」というと「没落、失敗、不幸、滅亡」等の「禍い」が思い起こされる。しかし元来、「呪い」も「祝い」も、まったく同じ意味を持つ言葉なのである。神はその「みこころ」を、「ことば」によって語られる。その「ことば」は、力となって実際に働くのである。何も贈答品のように、「呪い」と「祝い」という別々の品があるわけではない。

要はそれに対する人間の側の問題なのである。最初に「薬」の話をしたが、その効果をまったく認めないならば、服用する意味もなく、嫌がって服用しなければ、病気からの回復も見込めない。とはいうものの人間は身体と精神が密接に連関して生命活動を行っているから、事柄はより複雑である。疑心暗鬼で行うならば効果は半減するかもしれないし、逆に「偽薬(プラセボ)効果」という現象もあるし、あるいは薬自体の効能が疑わしい、ということもあるだろう。「神のことば」を「薬」の比喩として説明するには、いささか不適切な面があるのは否めない。しかし聖書によれば、神は「禍幸、善し悪し、義不義」を、勝手気ままに行われる方ではなく、「神はその御名にふさわしくわたしを義しい道に導かれる」(詩23編3節)のである、神のみ名に恥じるような「みこころ」を行われることはないという。すると、神のことばの前に、私たちがどのように対するかが問題となるのである。真っすぐ向くのか、それともそっぽを向くのか、それによって同じ「ことば」が、「祝福」となり、あるいは「呪い」となるのである。

今日の個所では、神のことばに対しての「姿勢」について、このように問いかけるのである。2節「あなたの神、主があなたを追いやった先のあらゆる国民の中で、その言葉を思い起こし(シューブ)、あなたの神、主のもとに立ち帰り(シューブ)」。「思い起こし」、「立ち帰り」、この二つの表現には、同じ用語、「戻って行く」という言葉が用いられているのである。直訳すると「自分の心に立ち帰る」つまり「われに返る」という意味になろう。同じ事柄を二回繰り返して、反復表現によって語るということは、この姿勢に対しての重要性が告げられているだろう。

主イエスもまた、この「立ち帰る、われに返る」ことの大切さを、「放蕩息子」のたとえ話の中で語られている。この息子は、父からの財産を受けるが、放蕩三昧ですべて失ってしまう。全ての財産(祝福)を失った時、彼は我に返り、父のもとに立ち帰るのである、そしてそこで新たな赦しと祝福を再び受けるのである。「立ち帰る」ということは、あの放蕩息子のように、道を逸れて、道を外れて、ひとたび失われてしまうことが意識されている。だから道を逸れても、外しても、そこから「立ち帰る」というあり方ができるのである。道を逸れて、外れるなら、神のことばは「呪い」となるだろう、しかし立ち帰るなら、「祝福」として再び喜ばしい出来事を生み出すであろう。

但し、「信仰」にも、「薬」と同様の性質があるかもしれない。6節「あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる」。とあるが、ただ教条的に戒めを守ろうと躍起になる「律法主義」は、いわば薬漬けの処方、あるいは過度の薬物依存に準えられるかもしれない、それは「原理主義」に通じるのだが、却って健康を損ない、人間の自由やおおらかさ、寛容を奪うことになるだろう。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」と、主イエスの言われる通りである。