「多くの部分から」コリントの信徒への手紙一12章14~26節

なつかしの「岩波の子どもの本」シリーズの1冊に、「はなのすきなうし」という絵本がある。スペインを舞台にした物語である。こんなストーリー。「スペインのある牧場で暮らす牛のフェルジナンドは、小さな頃から花が大好き。他の兄弟牛たちはマドリードの闘牛場で勇敢に闘うことを夢見ているのに、フェルジナンドだけはひとり花の匂いを静かにかいでいた。母親もこの息子が気がかりだったが、それが好きだというので、そのままにさせた。フェルジナンドはやがて成長し立派な大きな若牛となった。そんなある日、闘牛を探しに牛買いたちがやってきた。フェルジナンドはいつものように木の下でのんびり花の匂いを楽しんでいたが、突然あばれ牛となって、狂ったように大騒ぎをする。それは偶然、お尻を蜂に刺されたから。この光景を見た牛買いたちは勇ましく獰猛な牛を見つけたと大喜びし、フェルジナンドをマドリードの闘牛場へと連れて行く。闘牛場に引き出されたフェルジナンドはどうなるか。観客席には、芳しい花をつけた女性がたくさんいた。彼は闘牛場の真ん中に座り込んで、その花のにおいをかぎ始めた。引っ張っても、たたいても、つついても、ただ寝転がっているだけ。ついに闘牛は中止となり、元の牧場に連れ帰される」。

この本は1936年スペイン内戦の時に出版された。勇ましく戦うことが求められ、期待される時代であろう、皆が熱狂と興奮の坩堝にある中で、ひとり花のにおいをかいでいるひとりの人物がいる。偶然のいたずらで彼は戦いの場に引き出される。しかしその中でも彼は自分にもっともふさわしいあり方「花のにおいをかぐ」ことを、ごく自然に見出し、そのように生きるのである。皆がひとつの方向に目を向け、ひとつの事柄に集中しているときに、その中にあってもまったく別のものを見、別の世界に目を向けている。わがままだ、ひとりよがりだ、独善だ、そういう批判が聞こえてきそうだが、戦争の中でこういう本が出版されるその国の「健全さ」を思う。私達の国はどうなのか。

今日はコリント前書12章からお話をする。先ほどの文章を聞いて、この聖書個所を読むと、どのような感慨を持たれるであろうか。パウロの手紙の内で、有名な個所である。パウロの教会論として、しばしば取り上げられるテキストでもある。曰く「教会はキリストの体である」と言う。教会はキリストの体であって、そこにいる一人ひとりの人間は、みな、ひとつの体を構成する部分なのである。教会を、「体」として捉えたところが、非常にパウロらしい、と評される。
この手紙の送り先、コリントはギリシャ屈指の港湾・貿易都市で、この都市に集まる人々の意識も高く、ヘレニズム文化の拠点でもあった。素よりギリシャ人の思考は、霊肉二元論であり、「肉体は魂の牢獄」という諺の通り、「体」は有限であり、永遠なる「霊・精神」よりも一段劣ったもの、と見なしたのである。他方、ユダヤ的観念では、肉と霊とは明確には区分けされず、緊密に繋がっており「肉が病めば霊も病み、霊が病めば、肉も病む」という具合に、不可同、不可分の関係を思ったのである。

パウロはこのヘレニズムの本場で、「教会はキリストの体」と断言し、「体」を強調したことは、ある種の「挑戦」だったともいえる。特に14節に彼らしい主張が読み取れる。「体は一つの部分からではなく、多くの部分から成り」、つまり多くの部分の寄せ集められて出来ているのが、体なのだという。丁度軍隊のように、頭があって、その頭が、それぞれの部分に命令を下して、その命令にしたがった統一ある行動をして、体の働きが保たれているというのではない。ここにはパウロのユダヤ的な感覚がよく表れている。ユダヤ人にとって、思考の座は、感情の座でもあり、「はらわた」こそ体そのものなのである。思考と運動、2つの働きがないまぜになって、ひとつの体が出来上がっている。だからユダヤ人の思考は、およぞクールではなく、激しく、熱い。しかし同時に、教会の現実を直視した中から、こうした教会論が生まれていることにも注意したい。皆さんは、今、このパウロの言葉、「教会はからだ」というイメージをどう受け止めるだろうか。
手紙によれば、コリントの教会では、教会員が共に「礼拝」を守れない程の状態であったという。共に「礼拝」が守れないとはどういうことか。古代教会の礼拝は、愛餐の時でもあった、夕方、皆が食べ物を持ち寄って、賛美し、祈り、み言葉を分かち合う中で、共なる食事が行われたのである。ところが早く来れる人、仕事の都合で遅くなる人、食べ物を沢山持参できる人、何ももって来れない人や、大人子供、若者、壮年、高齢者、金持ち、貧乏人等様々な人々がいた。待っている内に段々おなかが空いてくる。先に初めていようかで、先に来ていた人々(時間が自由になる人々)が、自分達だけで飲み食いし始める。ようやく皆がそろった時には、「空腹のものがいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だ」とパウロはそう批判するのである。さらに今日の個所ではより深刻である、21節「目が手に向かって『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって、『お前は要らない』とも言えません」。この言葉をどう読むか。教会内でこういう言葉が、本当に発せられていたとしたら。「お前は要らない」。
15節直訳「体の中の内でほかよりも弱い部分こそが必要なのだ。また体の中の無価値に思えるところに、ますますの価値を見い出す。格好の悪い部分が、実はよりよい姿を持っているのだ」。教会は、お前はいらないという場所ではなく、無価値と思えるところに、ますますの価値が見いだされる場所である。

「体」と言うことについて、いささか文学的な表現だが、こういう文章がある。「脳や心臓が人体の中心」なんて考え方は、もう捨てよう。あなたは知っているだろうか?
体の中で、あらゆる臓器や細胞が、まるでにぎやかに会話するように、ダイナミックな情報交換を繰り広げていることを。それはまさに、人体という名の「巨大な情報ネットワーク」。いま、あなたの体内で交わされている、臓器たちの熱い会話が、あなたの命を、健康を、支えているのだ。NHKが製作したシリーズ「人体」の序詞である。体の中の様々な臓器・細胞を初めとする多くの部分が、互いに呼応しあって、ひとつの体を形づくり、生命は保たれているというのである。
学生の時に、教会の方から聞いた。教会の原則は「不適材不適所」である。牧師から役員、教会員まですべてひっくるめて、キリストの体に真にふさわしい、適材適所の人材はいない。不適材不適所だから、それが共に繋げられて、主イエスの働きが露になるのである。暑い日だが、礼拝後、ミニバザーを行う。不適材不適所で、楽しもうではないか。