「二人の目は開け」 創世記3章1~14節

ごくごく当たり前のことなのだが、改めてよく考えてみると、きちんと説明できない事柄は、身近なところに結構転がっている。ラジオの子ども向け電話相談に寄せられた質問という。「ヘビはどこからがシッポなの?」(小学1年)。または「シマウマの模様は白地に黒なのか、黒地に白なのか?」(中学1年)。番組に出演していた昆虫学者、矢島稔さんが随筆に書いている。「いずれも大問題である」と。確かに素朴な問いのようでいて、そう簡単には答えられない。子どもとは、愉快な難問をつくる天才かもしれない。

子どものように「愉快な難問」の答えを日々に追い求め、突き止めようとしている方が世の中にはいる。先日、ノーベル賞の受賞者の発表があった。化学賞で、この国のひとりの研究者が受賞した。その業績に大きな称賛が寄せられたのは言うまでもない。その先生が、学会ではじめて、賞の基となったアイデアの研究発表をした時には、自分を含め5人しか聞く人はいなかったという。その中の一人は自分の指導教授で、後残りは皆同じ先生のゼミ生であったというから、全く他から関心を寄せられなかったということである。

有名なノーベル賞とは別に「イグ・ノーベル賞」という賞がある。1991年に創設された「人々を笑わせ、そして考えさせてくれる業績」に対して与えられるノーベル賞のパロディーである。この賞には毎年、この国の研究者が栄冠を勝ち得ている。どんな研究が受賞の対象になったのか。今年は「典型的な5歳の子供が、1日に分泌する唾液量の測定に対して」、「ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させることに成功したことに対して」「床に置かれたバナナの皮を、人間が踏んだときの摩擦の大きさを計測した研究に対して」、どれもこんなテーマが研究の対象になるのか、とあきれるが、この国の人間のユーモア度も、隠れてはいるがなかなかのもの、と感じさせられる。

今日は前回に続いて、創世記3章から話をする。この個所は色々に題名が付けられている。「アダムとエバ」「堕罪物語」「ヘビの誘惑」等など。キリスト教の教理では、原罪の根拠を示す聖書個所なので、人間の「罪」に殊更に焦点が当てられて、読まれ解釈されてきた。確かに「罪」は問題にされているのだが、「物語」の成立と言う面から眺めると別の見方が生まれる。つまり、平穏無事な日常を描いても、面白い話にはならない。ドラマにするためには、ひとつの要素が必要なのである。それは「切羽使った状況」である。ドラマではミステリ仕立てが多いのも、そういう理由である。「だまして、だまされて、罪を犯して、破滅してゆく、しかし希望は残る」、ドラマ展開の常套手段ではないか。「アダムとエバの物語」では、なぜ「罪」が語られるかと言えば、それは「切羽詰まった状況」を作り出すためである。この物語は典型的なドラマの構成要素に満ちている。

聖書は基本的には、「物語」それも長大な物語である。なぜこんなにもはてしない物語を記したのだろうか。子どもは物語が好きである。自分もそのお話の中の登場人物のひとりとして、物語の中を旅するのである。そこから物事の理解、この世の中の道理や筋道、自分自身とは何者かについて学んでいくのである。物語がなかったら、子どもの心は育まれない。子どもに読み聞かせさせる理由である。古代人の感覚は、この子ども心と同じであるといえるだろう。最初に言及した「当たり前だが、考えてみると説明が難しい問い」、その最たるものは、神について、神と人との関わりである。目に見えない神が、なぜか人間と関わりを持ち、愛の手を差し伸べ、人間を罪から救おうとする。ある意味では途方もない話を、ともかくも何とか理解しようとするとき、「物語」と言う方法を人間は用いるのである。主イエスは「己が十字架と取りて、我に従え」と言われた。私たちは福音書の物語を読みながら、そのように主イエスの後をついて歩くのである。それでしか分からないことがある。

このエデンの園の物語には、たくさんの「なぜ」が、素朴な難問がいくつも語られている。「なぜ人は、蛇を嫌うのか」(中には好きでペットにする人もいるが、突然出くわすと大抵の人はぎょっとする。蛇は気配なしに突然現れるので、騙し役としては最高の配役である。これが他の生き物だと、ぴったり来ない。例えば人間を最も殺す生き物は何か。蚊であるが、悪役には向かない)。「なぜ夫婦は喧嘩をするのか」(12節、男が語る言葉の「冷たさ」に愕然とする。「あの女」と責任転嫁をしている)。「なぜ人は顔に汗して、働かねばならないのか」、「なぜ女の生みの苦しみが大きのか」、「人はどうして服を着るのか」。そもそも「なぜ人は騙されるのか」。「罪を犯すのか」。このたくさんのなぜなぜを、この短い物語に凝縮して語るのである。確かに人間は、「なぜなぜ」と問う生き物である。だからそういう生きる上で、身の回りに生じる、素朴だが難しい問題を、この物語は、この短い話に凝縮している。つまり考えに考えられ、練に練られた物語なのである。

この個所で話し出すと、いくらでも種は尽きない。そこで今日は、この物語のそもそものきっかけについて考えたい。神はエデンの園に人を置かれた。アダムとエバの二人、食料として園の中に、たくさんの実を付ける木、食べるに良い果樹を生えさせられた。しかしその中に食べてはいけない果実があった、「禁断の木の実」である。それは「善悪の知識の木」だという。そこで皆さんに問いたい。なぜその実を食べてはいけないのか。

「善と悪」をしっかり知り、区別し、きちんと判断できることは、良いことではないのか。人間の善悪は、一筋縄ではいかない。複雑に絡み、入り混じっており、黒白をそんなにはっきりとは区分けはできない。すぐにはっきり区分けできるなら、裁判所はいらないのである。そういう厄介な善悪について、はっきりと判断できる「知識」が得られる、何と素晴らしいことではないか。

ここは少しばかり、ヘブライ語の知識が必要である。「善悪の知識」とは、「これが善で、これが悪、と区別や識別、判断する知識」のことではない、ということである。ヘブライ語特有の表現方法で、「善と悪」という二つの異なる言葉を並べた時は、「それからそれまでの間のすべて」総体を意味している。だから直訳するなら「善から悪までのすべての知識」、この世界のあらゆる知識、この世のすべての知識、と言う意味である。そんなありとあらゆる知識全部を、人間は獲得することができるのか、と疑問に思う人がいるだろうが、事実、人間はそれを目指して日夜、努力や精進しているではないか。もちろん「奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の~」という現実はあるにせよ、である。「私は浜辺できれいな貝殻を拾い集めて喜んでいる子どもに過ぎない。目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっている」(ニュートン)。「すべての知識」は人間のものではなく、ただ神のものなのである。それを得ようとすることは、自らが神になろうとすることである。だから「善悪の知識の木」は、禁断の果実なのである。それを食べることは、大きな罪である。

これを食べた時に、人間に何がもたらされるか。7節「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り」。人がまず知ったことは、「自分たちが裸であること」、そして神の顔を避けて「園の木の間に隠れた」のである。「知る」ことは、いつも幸せで、うれしく喜びであるとは限らない。でも人は知りたがる。知らせないと怒るし、知らなかったと言い訳をする。「いい若いもんが言い訳してはだめだ」。そして「知らない方がよかった」とつくづく後悔する。この世の現実、人間の歴史の中の闇、不条理、悲惨、それを知って耐えきれず、知らなかったことにして、なかったことにして、事実を隠し、隠滅を図る。しかし、人間がどうあがいても、裸である、みじめで空しい生き物であることを、隠すことはできない。禁断の木を食べて、人間がまず知ったことが、自らの裸の姿であった。

先日の折々の言葉にこうあった。「行政機能が麻痺(まひ)し、消防も警察も、コンビニも頼れないとき、どうしたらいいのか。頼りになるのは、隣にいるふつうの人だった。(松村圭一郎)。熊本で被災した母親の体験を例に、「不測の事態を打開する鍵は、大きな組織ではなく、小さなつながりにある」と文化人類学者は言う。

この当たり前のことが、改めて真理として口にされたのは、阪神淡路の震災の時だった。もう20年以上前である。神のようなすべての知識によって、人は生きていない。「頼りになるのは、隣にいる普通の人」。しかしその当たり前のことが、最も難しい問題なのである。

先週から降誕前節が始まった。主イエスの福音のまず第一は、「神は人となって、私たちのもとに宿った」ということである。それは「頼りになるのは、すぐ隣にいるふつうの人」に神自らがなってくださった、ということである。どんなに取り繕うとも、裸を隠しようもないの人間の、すぐ隣にお出でくださった。この途方もない知識の前に、へりくだり心を開きたい。