「自分の考えで」ヨハネによる福音書18章28~40節

こういう新聞コラムを読んだ。「巣ごもり消費」というらしい。新型コロナウイルスの感染拡大で外出を控えて自宅で過ごす人が増え、家で食べるカップ麺や冷凍食品、総菜などの売り上げが大きく伸びている。缶ビール類もよく売れているという。宴会が自粛され、家でグラスを傾ける人が多いのだろう。飲食店に宅配サービスを求める声もあるようだ▼もともと、休日に自宅でインターネット通販を楽しむ傾向が広がっており、単身者の増加で「お一人様」向けのビジネスも活発化していた。他人と関わらずに自宅で完結する消費行動は案外、自然に受け入れられているのかもしれない(京都新聞3月18日付「凡語」)。
今日は「棕櫚の主日」、受難週を迎えた。この受難節は、例年になく「内向き」の年であった、と感じる人も多いだろう。この数年、世界の「内向き」傾向が語られて来たが、それに付随して、本当に「巣ごもり」の生活が、全世界で展開されることになるとは、実に皮肉なものである。受難節だから、主の十字架を思い、自分の内面的な豊かさを追求するのは理にかなっているだろう。しかし得体のしれない病気を恐れて、内に籠る、巣篭るというのは、何かの符号あるいは隠喩ではないか、とも思わされる。内に籠るのは、受難節らしい態度であろう。しかしそれが「ウイルス感染症」によって強いられるというのは、何かちぐはぐな感は否めない。
さて、今日の聖書個所は、ヨハネ福音書の受難物語の一節である。主イエスが十字架に付けられる前の晩、様々な出来事が展開される。どの場面も印象深く語られ、私たちに問いかけて来る。「最期の晩餐、洗足、弟子の裏切り」、そして今日の個所、「ピラトからの尋問」、これら一連の物語に共通することは、「ちぐはぐさ」である。ここに登場する人物、ペトロをはじめとする弟子であれ、大祭司であれ、ローマ総督であれ、ナザレのイエスについて、誰も、何も、分かっていない、ということである。確かに言葉が交わされている。対話がなされている。ところがその言葉は、みなすれ違っているのである。話がかみ合っていない。言葉は交わされる、だが言葉が通じない、噛み合わない、とは真実の出会いがない、ということである。これこそが人間の抱える、もっとも根本的な課題なのである。
主イエスが大祭司、カイアファのところから、ローマ総督ポンティオ・ピラトの下に送られてくる。大祭司はユダヤの国を背負っている。そして総督は皇帝の名代としてローマ帝国を背負っている。そのふたりが顔を合わせ、話をするのである。そこでのやり取りを支配するものは何かと言えば、この国でおなじみの「忖度」である。はっきりさせるといろいろ差しさわりがある。「こうしてくれ、ああしてくれ」、とは語られないで、「言わずとも、どうするか分かっているだろう」という空気、見えない力が支配する。国の利害を真っ向から背負う二人の人物のやり取りは、現実の政治の有様を見ているようで、思わず笑いが出る。
このナザレのイエスという厄介ごとの根を、どう平穏に収拾させるか、野放しに放っておけば、さらに人心を掌握し一大勢力となり、国の基盤を揺るがす大きな脅威となるだろう。しかし下手に始末をすれば、反乱が勃発し、さらに厄介なことが起きる恐れもある。総督も大祭司も、「安寧秩序の維持」しか念頭にない。この二人は互いに利害を一つとしながらも、自分のところに火の粉がかからぬように、綱引き、駆け引きをするのである。 29節「ピラトは彼らのところへ出て来て」、総督自ら、わざわざ大祭司のいる玄関まで降りて来て、丁重に迎えたというのである。力関係から言えば、総督は皇帝の名代であり、ユダヤを足下に置く立場である。それが「大祭司の身が汚れる」ことを配慮して、自ら出迎えた、これはピラトの計算づくである。「大祭司」の顔を立てたのである。
「どういう罪でこの男を訴えるのか」というピラトの問いに、大祭司は「悪いことをしていなかったら、引き渡したりはしない」と微妙、あいまいな言い方で答える。「いわずもがな、分かっているだろう、今更余計を言いなさんな」という訳である。ピラトも総督である、ただ押し切られるだけでは、面目が立たない。「自分たちの律法(きまり)に従って裁け」と押し返すと、大祭司は「自分たちには権限がない」と答える。決まり決まった答弁のようである。主イエスの十字架への道は、このような最も典型的なこの世の論理の中で、進められていく。つまり「十字架」は、こんなにも深く政治の世界と関わっているとも言えるだろう。
大祭司とのやり取りによって、引き渡されたナザレのイエスという輩に、総督は少し興味を引かれたのか、4つのことを問いかける。「おまえはユダヤ人の王なのか」、「何をしたのか」、「やはり王なのか」、「真理とは何か」。「神の国」を巡って、総督らしい発言が繰り返される。彼はやはり権力、支配、政治の観点からナザレの人イエスに問いかけるのだ。ピラトにとって「国」とは、ローマやユダヤというこの世の国、国家、領土という観念しか頭にない。そしてそれこそが重大事項で、彼にとってはそれ以外のものは無意味なのである。人間は自分の見たいものしか見ようとしない。自分の見たいものが「真理」なのである。
だから主イエスはピラトにこう語られる、34節「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそういったのですか」。人間の「真理」に対する態度如何が、はっきりと指摘されている。真理を相手にしているかどうか、誤魔化しているか、本当のものに向かおうとしているか、ただこれだけである。「自分の考えか」あるいは「他の人の言っていることか」。そんな専門家のようなきちんとした知識がないから、自分には考えることはできない、ではない。人の言葉をそのままうのみにし、何も考えない、自分はどうかとは問わない、自分に火の粉が降りかからなければそれでいいと考える。ピラトを始め、ここに出て来る役者は、まさに「内向き」の「巣篭り」生活者である。
37節後半「真理に属する人は」、直訳すると「真理から出る人は」、この語には「真理に押し出されて、歩み出して行く」というニュアンスがある。つまり真理に目を向ける人は、内に籠っていないで、外に向かって歩みだしていくというのである。歩み出すのなら、行き先が必要になる。どこに行くのか、「わたしに来る」と主イエスは言われる。わたしの居る所に、わたしが働いているところに来て、わたしと共に生きるだろうと言うのである。「真理」とは、「神の国」である。神が働いておられるところ、主イエスが生きておられる現場、のことである。自らの権力や勢力の範囲とか、自分の勝手気ままにできる所とか、自分の利益が計れるところ、つまりこの世の国ではない。
主イエスはまさに、自分から歩み出す生涯を送られた方である。神の子としての身分を後にしてこの地上に来たり、病み悩む人々、魂の飢え乾いた人々の間を巡り、ファリサイ派、サドカイ派の人々、カイアファやピラトという権力者たちとも出会われ、語りかけられた。そして神に呪われた者、政治犯として十字架の上にあげられた。しかしこれこそが「真理」の姿なのである。十字架の下に立って、「あなたの考えか、他の人の言ったことか」を私たちは自らに問い、そこからは始める必要があるだろう。
最近こんなニュースが伝えられた。英国の八十八歳の男性が亡くなったそうだ。新型コロナウイルスに感染していた。イタリア旅行から帰った人とレストランで接触したのが原因らしい。その悲劇から物語は始まる。信仰心のあつかった男性の葬儀をどうするか。残された家族は話し合ったそうだ。結論を出し、生前、親しかった人々に伝えた。「故人への献花もお悔やみのカードも忘れて」、その代わりに男性を悼むため、別のことを頼んだ。「誰かにやさしくして」。感染拡大によって困っている人が大勢いる。孤独を感じている人がいる。買い出し、子どもの世話、おしゃべりの相手。なんでもいいから助けてあげて。それが男性を追悼することになると。英BBC放送が伝えていた。深い闇。その中で人同士もどこかギスギスしている。それでも、やさしさという松明(たいまつ)の光で闇をかすかにでも照らす人がいる。
悲劇からも救いの物語は始まる。「十字架」は、神の真理が現実になった「しるし」である。ここから復活の力は沸き起こるのである。