「受難週祈祷日奨励」ローマの信徒への手紙5章12~21節

「水を持ってきてくれる人はそのいれものをこわす人でもある」。アフリカのガーナのことわざだそうだ。水を手に入れるのが容易ではない地域である。井戸や川まで長い距離を歩いて水をくみにいく。重労働である。それを厭(いと)わず何度もくみにいく勤勉な人はその機会が多い分、容(い)れ物を壊しやすいのだろう。ことわざは努力する人の失敗を批判すべきではないという意味なのだとか。
人間はどうしても自分の好むこと、望ましいことしか見ようとしない。プロ野球の監督で名称と詠われた故野村克也氏は、生涯に3206回の試合を采配した。その結果は勝ち試合は1566回、負け試合は1564回、引き分け試合76回、勝率.500、貯金2というものである。2試合ほど勝ち数が多い、これで名監督なのである。私たちは試合をしたら、全部勝ちたいと考える。しかし勝利の裏側には、負ける現実が果てしなく累積している。負けという経験をすることなしに、勝つことはできない。ある意味では、勝つためには、多く負ける必要がある、ということなのだ。だから氏は、戦略を練る時に、三連戦で、二回続けて負けて、その次の三試合目をどう戦うか、という見地から、いつも作戦を練ったという。
今日は「受難週祈祷日」である。主イエスの十字架を深く心に思いつつ、共に祈り守りたい。この「受難節」は、世界中が「コロナ禍」ともいうべき災厄に見舞われた時でもあった。まだ終息には程遠い。今年開催されるはずであった東京オリンピックも、延期やむなしの決定が下された。相手は目に見えないくらいの原始的な生物とも無生物とも言えない生き物、ウイルスである。これを通しても、世界の人間たちは知らされたのではないか、本当の敵が何であるかを。そして人間の生命が、実に微妙なところで保たれており、生きているというのは、実に生かされている、ということで、本当に幸いなことだと、深く考えさせられたのではないか。オリンピックは平和の祭典、国々でこの時くらい争いをやめて、和らごう、という心から生まれたとされる。そのオリンピックの年に、このような災厄が生じた。ここにも、神のみこころがあることを思いめぐらしたい。
「十字架」は、聖書の時代の人々にとって、「神」や「救い」と関係している、などということは、戯言のようであった。ローマ人にとっては、皇帝に逆らう政治犯への「見せしめの刑罰」であったし、ユダヤ人にとっては、神に逆らう罪人への「呪いのしるし」だったのである。どこをどう捜しても、救いの「ス」の字もなければ、神の「カ」の字も見出せないものであった。いわば人間の深い罪が、最も具体的に表れている場所なのである。
人は自分が不都合に思う者、不快と感じること、嫌悪することを、見えないところに追いやろうとする。部屋の掃除も、こまめにしていれば、いつも小ぎれいでいられるが、少し手を抜いて放っておくと、すぐにたくさんのゴミがたまっていく。それが積み重なり、大量のゴミが部屋にあふれて来ると、もう手の施しようがなくなり、どうにかしなくてはならないけれど、どうにもならない、やんぬるかな、という状態になってしまう。一念発起できればいいが、中々重い腰が上がらずに、ごみの中に埋もれてしまうのである。
今日の聖書の個所は、ローマ書の中でも、パウロの最も言いたいことが語られている部分である。アダムとキリストが比較されて語られている。12節「ひとりの人によって罪が入り込んだ」。最初は実にささやかなことだった。「食べてはいけない」と言われた木の実を食べた、それだけのことだった。食欲に負けたのか、未知の食物への好奇心か、あるいは「カリギュラ効果」(禁止されると余計にやりたくなる)か。動機がどうあれ、その時に、人間は悔い改めることもできたのである。正直に神の前で、申し訳ないと謝り、方向転換することが出来たのである。それはつらくみじめであるかもしれないが、やり直す早道でもあった。しかし人はそうしなかった。己の罪を隠し、神の目から逃れ、言い訳をし、責任を転嫁し、罪に罪を重ねたのである。罪が罪を呼び、こうなると都合の悪い、見たくない、ごみは、あまりに大量過ぎて、もはや自分ではどうにもならなくなる。
「ひとりの人から」という言葉も、自分の生活に当てはめて考えれば、なるほどと思わされる。今回の「コロナ禍」も、元々はわずかな人から、もしかしたらひとりの人から始まった「感染」であろう。人から人へと感染が繰り返されるうちに、どうにも手の付けられないほどの規模になってしまった。何であれ人間の営みとはこれまで、実際、このように推移してきたのではないか。
20節「しかし罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」。「これが最後だ、神はいるのか」、神を神とも思わず、人を人とも思わないフョードル・カラマーゾフのセリフである。神が居なければ、人間は何をしてもすべて許されるというのである。人間の最も重い病は、目の上のたんこぶのような神を、どう取り除くかに腐心したことにある。だから神の子を十字架に付けるという、最も深刻な罪が表われたのである。その罪を放って置けば、ついに人間は人間同士、噛み合い、食い合って自滅することだろう。まさにそういう現実がこの世にはあふれている。全世界がコロナ禍に悩む中にも、ミサイルを発射する輩はいるのである。しかし神は、決してそれを見過ごして、自業自得、自己責任で放置することはなさらなかった。
「12歳の夏、母を結核で失った。白い夕顔が咲く庭で、弟が地面に棒で母の顔を描きながら、体を震わせて泣いている。その時、泣いている人にやさしくしてあげられる人になりたい」と思ったという。かつて札幌での講演会で、宮城まり子さんは、「その時の思い出が、肢体の不自由な子どもたちの施設『ねむの木学園』につながっている」と語っていた。決定的だったのは、俳優として脳性まひの少女を舞台で演じることになった経験だ。演技のために施設に通い、そんな子どもたちを観察しているうちに、はっとした。「たかだかちっぽけな女優が、あの子を自分の演技のお手本として見ている、あの子は見られている。そんな違いがあっていいのかしらと思ったら、どうしても演じられなかった」。
神のひとり子、イエスの十字架という、最も悲惨な出来事を通して、神は、私たちの罪からの救いの道を切り開こうとされたのである。「水を持ってきてくれる人はそのいれものをこわす人でもある」。神はそのようにされた。私たちに生命の水を与えるために、生命の水の入れ物を壊されるのである。実に壊れた入れ物から、私たちは大きな生命をいただくのである。