祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書1章39~56節

昔、教会学校のキャンプ、あるいは教会の青年会での集まりで、ゲームに打ち興じ、楽しんだ思い出を持つ人は多いだろう。雨で野外活動ができない時、大人数でできるトランプを使ったカードゲームは、定番の時間つぶしであった。スマホの出現など、予想だにしない時代であった。

特に皆の人気は、「大富豪」とか「大貧民」とか呼ばれたゲームだった。一番早く手持ちのカードがなくなった者が勝ち、という「切り札」ゲームなのだが、「階級闘争」をシュミレートするようなロールプレイング的な要素を持っている。ルール上、「大富豪」役が大体、有利にことを進められるようになっているのだが、天の配剤ならぬカード配布の運次第で、最も下位の「大貧民」が稀に勝利することがある。すると「革命」の成就で、序列がすべて入れ替わる、という大逆転が生じ、これが楽しさの秘訣であった。

今日の聖書個所は、いわゆる「マリアの賛歌」と呼ばれる。伝統的に「マニフィカート」という呼び名を与えられてきた。ラテン語の聖書で、この歌の冒頭は「わたしはあがめ(大きくする)」から始まるゆえに、最初の章句を取って、そのように呼ばれ。親しまれてきた。

先に「歌」は「訴える」が元々の語源であり、「歌うこと」は、人間の脳の、最も古い部分に根ざす機能とされている。つまり野獣等の脅威に、歌声で立ち向かうツール(武器)の役割を果たしていたようなのである。確かに、会社や国や軍隊でも、人間の集団や組織には、歌がつきものであり、これが結束や士気を高める働きをしている。

この「マリアの賛歌」もまさしく「歌」と呼ぶにふさわしい勇壮な調子を持っている。福音書ではこの時、マリアは成人したばかり、十代の半ば位の年齢であったと、著者は考えているようだ。その年齢からすれば、この歌の章句は、不釣り合いなほどの強いインパクトがある。本当にマリア自身の言葉が元になっているかどうか、疑問も呈されて来た。

但し、聖書には、女性による賛歌がいくつか収められているが、モーセの姉ミリアムが歌ったとされる出エジプト記、紅海の渡渉の後の「海の歌」、あるいはサムエル記上2章の「ハンナの祈り」の章句も、それぞれ勇壮で大胆な表現が駆使されている。だから聖書学者たちの内には、著者(ルカ)がそれらの女性の手になるとされる旧約の賛歌を、アレンジして、うら若いマリアの口に乗せたと見る解釈を取る者もある。

しかし、昨年9月に行われた「国連環境サミット」で、スウェーデンの17歳の高校生にして社会活動家、「温室ガス効果による地球の環境悪化」に反対し、たった一人で毎金曜日に、国会の前で座り込みを続けた、グレタ・トウンベリさんがおこなったコンパクトな演説は、世界の指導者たちの心えぐるような言辞にあふれていた。マリアが年若いとはいえ、このような歌は歌えない、というのも、一方的な決めつけである。聖書において「ことば」は、決して人間の能力レベル如何の問題ではなく、神の霊とのつながりの中でとらえられるべきものである。神の霊は平凡な人間に、新たな地平を開くのである。

「マニフィカート」に歌われている内容は、階級闘争的な、下克上的な地位の逆転、という色彩が強い。「おごれるものは久しからず」である。「高慢な者をちりぢりにし、権力者を引きずり下ろし、富裕者を飢えさせる」と既存の価値や物差しを逆転させる神のみわざを、鋭く語るのである。

このような大いなる変化や逆転を、私たちは夢物語のように感じ、この世の現実の有様を、不動で決して突き崩すことのできないものとして、無力感にも襲われるのである。本音は変わりたくない、変わって欲しくないという保守的な願望に捕らわれているのかもしれないが。しかし神は、人間の思いを超え働かれ、いつか変革を呼び覚ますのである。

「マニフィカート」は、聖書において、他と異質なトーンを放っているのではない。主イエスの告知した「神の国」は、実に「後の者が先になり、先の者が後になる」、「幼子のような者たちのもの」なのである。あるいは、「貧しい者は幸い、飢えている者は幸い」という、この世の論理が裏返されるところなのである。マリアはその神の国を、み子の語る福音の先駆けとして、高らかに歌うのである。

マリアの賛歌のもろもろの調べの基調は、48節にある。かのマルティン・ルターも、聖書を母国語に訳すにあたり、このみ言葉にこだわったのである。「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めて下さったからです」。しかし原文に忠実に訳すなら、若干ニュアンスが異なる。「この主のはしための卑しさをも、顧みて下さった」。日本語の聖書では、文語訳がそのように翻訳している。主が目を留められるのは、「身分の低い(卑しい)はしため」ではなく、「はしための卑しさ」なのである。つまり身分の低い憐れなものを、かわいそうだとばかり憐れんでくださる、というのではなく、どんな人間でもその内に抱える「卑しさ」に目を注ぎ、これを顧みて下さる、というのである。神は人間の美点や長所や、人に誇れる有能さに目を向けられるのではない。全能の神の目にとっては、人間の誇りなど、塵芥に過ぎず、そんなところで人間を判断されるようなことはない。却って、人間ひとり一人が抱える、自分でもどうにもならない不甲斐なさ、情けなさ、即ち「卑しさ」に目を留めて下さって、そこに大きな恵みと慈しみを注いでくださる。「愚かな子ほどかわいい」と言うではないか。このまなざしがあるからこそ、そのままに生きていけるのである。

大正12(1923)年の関東大震災で、東京は焼け野原になった。あらゆる生命が焼き尽くされたような焦土に、ほどなく藤や桜が返り花をつけた。「九月の末に春が帰って来た」。物理学者の寺田寅彦は感激をしるしている。「崩れ落ちた工場の廃墟(はいきょ)に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た」。生きるために、決して欠かせぬわけでもない花が、生きる支えになることもある。花が食べられないというのは、何たる徳であろう…詩人の杉山平一さんが書いている。「人間の魂は、何の役にも立たぬ花や宝石やスターやひいきのチームや歌に熱狂する。あの姿こそ人間の美しさに違いない」(有明抄7月4日付)。

「人間の美しさ」とは、それは「手放しでの無条件の美しさ」、というよりは、人間の卑しさ、欠けや足りなさ、情けなさを、切り捨てるのではなく、深く憐れみ顧みてくださる神がおられるからこそなのである。人間の狭い料簡による価値の判断、決めつけ、おごり高ぶり、ひとりよがりを打ち砕く神のみ手は、確かにそこにある。