アジア・アフリカ礼拝「世界祈祷日2020 ジンバブエからのメッセージ」  「起き上りなさい!床をかついで歩きなさい」ヨハネによる福音書5章2~9節

3月に開催予定されていた「世界祈祷日2020」の礼拝を、今日ここに開催できることを、深く喜びたいと思う。全世界がコロナ禍に見舞われ、一同に参集できなかった今年の世界祈祷日であるが、それでも各個の教会で、地域で、家庭で、共同の祈りがささげられ、ジンバブエの姉妹兄弟たちを心に覚えることができ、感謝したい。

この4月にジンバブエの「世界祈祷日」委員会から、各国にある教会にイースター・メッセージが伝えられた。その一部分を紹介したい。

「恐れることはない!今年のイースターは忘れられないものとなるでしょう。私たちの中の多くの者が、今年は、礼拝のために教会に集まり、『ハレルヤ、キリストはよみがえられた!そうだ、主はよみがえられた!』と挨拶を交わすこともできません。その代わり、ひとりか、あるいは家族だけで家にいて、キリストの死からの勝利を宣言する世界の兄弟姉妹とネットでつながっているでしょう。この時期、新型コロナウイルスの拡大によって私たちは命を救うために家に留まっています。私たちはみな、暗い墓の中に置かれたように感じながら、それぞれの祈りの場所で祈り、心を神に向けています。私たちは闇の後には光があることを信じています」。

「暗い墓の中に置かれたように、祈り、神に心を向けている」と語られている。このような思いを、今なら、幾分かでも共有、共感できるのではないか。最近のニュースによれば、ジンバブエ国家統計庁は、この7月の物価上昇率(インフレ率)が年率840%近くまで上昇したと発表した。だが政府は、高まる危機感を認めようとせず、経済の苦境が一段と深まっている。2017年に軍事クーデターで失脚したロバート・ムガベ前大統領の下での経済の失政が招いた10年超にわたるハイパーインフレへの対応に追われている。

同国の人々はその多くが、貯蓄が消え去っていくのを目にし、今も砂糖や主食のトウモロコシ粉といった生活必需品を手に入れるのに苦労を強いられている。買物をする際、お金以外に必要なものがある。計算機、携帯電話、ノートは必需品だ。品物もまばらな雑貨店では、棚から商品を手にする人よりも値札の写真を撮っている人の方が多い。「値札の写真を夫に送ります。値段がまた上がる前に買うことに決めました」と、買物客のひとりはこう話す。「別の店にいる夫と写真を送り合います。双方の値段を見比べて、どの店で何を買うか決めるのです」。店で急いで計算し、買うべきかどうか自宅に電話をかけて相談する人もいる。別の店では、レジでの精算時に値段を確定している。レジ打ちを途中で止めて、値段を変更することすら行われている。

昨年までは、ジンバブエの人々は、生活は苦しいながらも、夫婦や家族で協力し、買い物もゲームのようなスリルを楽しんで、やりくりをしていた。しかし、そこにコロナ・ウイルスが襲い掛かったのである。ジンバブエの農村に住むひとりの主婦レベッカは語る。「結局のところ、女性や少女たちは新型コロナウイルスの一番の被害者となります。そしてそれは誰よりも私たちに危険をもたらします。なぜでしょうか?それはいつも家事をしているのが私たち女性だからです。私たちは薪を探し出し、調理をしなくてはなりません。私たちは安全ではない井戸に水を汲みにいかなくてはなりませんし、汲み上げには2〜3人の力が必要なのです。そこではソーシャルディスタンスを保つことはできません。私たちこそが最も危険にさらされているのです。」

かつてのこの国もそうだったが、皆が家族のように、助け合って、支え合って、密な人間関係の上にジンバブエの生活は成り立っている。ご飯も、大人数が一つ所に集まり、車座になって食べる、という生活の現場、そういう生きる絆がコロナによって、最も危険な場所となったのである。「暗い墓の中にいるよう」とは実際そういう意味である。

さて今日の聖書だが、このテキストはジンバブエの「世界祈祷日」委員会の姉妹によって選ばれた個所である。大体、一年位前には決定されているようだ。まだ世界が今年、こんな状況になるなど、誰も想像だにしなかった時である。しかし、このテキストが語る事柄は、まさに今の私たちの生活に向けて、語りかけているようだ。ベトザタの池の周りに、大勢の人々が横たわっている。皆、神の癒しを望んでいる。「水の動く時」、それは神の癒しの力が現われる「しるし」だが、真っ先に水に入らないといけない。「同病相身互い」とはいうものの、救われるのは一人だけ、大勢がそこにいても、そこに真の同情と共感の「絆」はない。そして、そこに、いやそこにこそ、主イエスはやって来られるのである。

「治りたいのか」と38年もの間、病み続けた病人に、主は声を掛ける。主のみ言葉は、語られた人の素性を、本性を明らかにする。「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」。「誰もいません」、「わたしの側には、助ける人がいないのです」。コロナ禍の中、人と人との距離を取ることが推奨されている。しかしソーシャル・ディスタンスの名の下に、必要以上に遠ざかる、身体も心も距離を取る、益々内に籠る、内向きになるという方向に、私たちの生活は向かっていってないか。

主イエスはこの人に声を掛ける「起き上りなさい、床をかついで歩きなさい」。この場面を描いた絵画を見ると、寝台(ベッド)をかついだ人が、歩いているさまを描いた作品をしばしば見かける。しかし病み上がりのまだ半病人に、重たいベッドを担げというのは、余りに酷である。ユダヤでは一般の人は、巻き簾か寝茣蓙のような敷物を敷いて、その上に寝ていた。だからくるっと巻いて、容易に担げるわけである。それでも「自分の寝床を抱えながら」、というのは、象徴的意味を語る喩えであろう。

私たちは、すっかり元気になったら、病気が全くよくなったら、自分の本来の歩みができるのに、と考える。できないのは病気のせいだ。しかし、病気だけによらず、人間は様々に困難な事情や不条理を抱えて、生きているものである。私たちは問題が解決してから、初めて歩き出せるのではない。困難や悩みが去ってから、自分の歩みができるのではない。「床をかついで」、病を担ったままで、いつまた病気になるやもしれない。それで歩むのである。主イエスと共なる歩みならば、それができる。倒れても、そこに主イエスがおられる。だから「自分の床をかついだまま」なのである。

暗い墓の中で、しゃがんでただ泣いていたマリアに、復活の主イエスが声を掛けられた。「恐れることはない」、この声に押し出されて、立ち上がったマリアは、弟子たちの下に歩んで行って、主の復活の出来事を知らせた。主の復活は、マリアの復活でもあった。

ジンバブエからのメッセージは、次の言葉で閉じられる。

「よみがえられた方のみ言葉は、私たちすべてに命を約束しています。イエスは私たちの先を行き、私たちを死から命へと導かれます。私たちの極限の状況の中で、大きな喜びと希望を持って生きる勇気を持ちましょう。そして、弟子たちのように、イエスの足を抱き、私たちの身のまわりに復活のしるしを見て、勇気づけられましょう。まことに、キリストはよみがえられた!アーメン」。