祈祷会・聖書の学び

聖句:「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが/豊作をもたらすのは牛の力」

箴言14章4節

 

新しい年が始まり、もう半月ほど経とうとしています。世の中は、昨年に引き続き、依然として「コロナ禍」の中にあり、先日には一都三県に「緊急事態宣言」が再発出されました。この新しい年も、いましばらくの間、さらなる忍耐が必要でありましょう。

新しい年を迎えると、その歳の「干支」が話題になります。今年は「丑(牛)の年」ですが、今の時世に、この動物が「干支」として巡ってきたことを、何ほどか象徴的な気持ちで受け止めています。詩人の高村光太郎の作品に、『水牛の歩み』と題された詩があります。「水牛は重荷追うても/そのことは言わぬ/ただ黙々と歩む/その蹄は大地に食い入り/

一歩一歩歩む/暑い日ざしの中を/白砂の眩しい珊瑚の石垣の道/沖縄の屋根低い家/

水牛はただ黙々と歩む/そのずっしりとした体に/重荷を受けとめ黙々と歩む/

人は騒ぎすぎる/人は解決を急ぎすぎる/人は不満が多すぎる/人はすぐに争いすぎる/人は性急に判断しすぎる/人は待つことを好まぬ/人は早い成功を求めすぎる/人は結果を求めすぎる/人は小さいことにこだわる」。

南国に暮らす水牛の、大らかで悠々たる有様が、生き生きと描かれています。それと対照的に、「人」の生きる姿のせせこましさが語られますが、成程、今の私たちの生活の様子を、生きる実際を切り取っているようにも感じられ、聊かぎくりとさせられます。「牛」の鈍重とも言えるゆっくりさは、大らかな生命の発露であり、人間には到底、真似のできない神の被造性なのでしょう。世界のあらゆる生命には、ひとつ残らず神の御手の刻印が、記されていることを、改めて思わされます。

新しい年を迎えますと、キリスト者の多くが、「新年に際してのわたしの聖句」を選び、その一句を一年の拠り所とし、心に引っかけて、時折、その聖句を思い起こし、反芻しながら生活する、という習慣があります。やはりどんな中にあっても、私たちが目を注ぐものは、「み言葉」に尽きるのです。不思議なことに、一年の終わりを迎え、その年の初めに選んだ聖句をもう一度、改めて思い起こすと、そのみ言葉にふさわしい歩みをしてきたように感じられるのです。もちろん、み言葉を実行できたとかできなかったという問題ではなく、み言葉そのものが働いて、この一年を導き、自分の歩みを守ってくれたような、感謝の気持ちがわいてくるということです。そんなことはあるのか、と言われるかもしれませんが、やってみる価値はあります。何せ、利用料が発生する訳ではありません。ただですが、ただより高いものはないのです。

私は、いくつか新年の聖句を選ぶ時に、その年の「干支」の動物が登場する聖句を読んでみる、ということをします。やはり「干支」の動物は、非常に人間にとっての身近な生き物で、生活の中で触れ合う機会もおおかったのでしょう。干支の生き物の中で、11の動物が聖書には登場するのです。その中で「牛」は、たくさんの記述があることから、聖書の人々にとっても、最も馴染み深い家畜であったことが分かります。

箴言14章4節に語られる「牛」についての文言は、まさに聖書の人々が、牛という家畜をどのように観察し、どのように評価していたかを知る、格好の記述です。「豊作」という言葉通り、古代、農耕に「牛」が導入されてから以後、格段に作物の収穫量が増加したのです。作物の基本は、土を耕すことに尽きます。硬い石地を柔らかに開墾することで、実り豊かな畑が生まれますが、人間の力では、たかがしれています。牛は人間の何倍もの力で、土を耕していくのです。その力の強大さに、畏怖の念さえ感じている農民の心情が、このみ言葉には込められています。「ただ黙々と歩む/そのずっしりとした体に/重荷を受けとめ黙々と歩く」と詠われる通りです。

ところが、そのような豊かな収穫を与えてくれる牛の働きの、もう一つの面をも、このみ言葉はしっかりと冷静に見ているのです。「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが」、これは家畜を飼育する生活の実際を、端的に切り取っているといます。牛は機械ではなく生き物です。ですからその世話は、きれいごとではすみません。毎日、食べさせ、飲ませ、身体をこすり、糞尿の処理をし、牛がいる限り牛舎は清潔、という訳にはいかないのです。パレスチナの農村では、住居の中が棒で二つに仕切ってあって、片方に人間が暮らし、もう片方に家畜が暮らす、という構造になっていたようです。否が応でも、人間は不快なにおいや動物の立てる騒音を忍ばなければなりません。

心理学者の河合隼雄氏は『心の処方箋』の中で、「世の中なかなかうまくできていて、良いことずくめにならないように仕組まれている。このことを知らないために、愚痴を言ったり文句を言ったりばかりして生きている人も居る」と語り、「ふたつよいことさてないものよ」と心を明らめるべきことを、指摘するのです。「世の中は、良いことばかりで成り立っていない」と人は嘆くのですが、「豊作をもたらすのは牛の力」があるからなのです。人間の目には、「これは良い、これは悪い」と勝手にレッテルを張りますが、神さまは、人間の目に映っている事柄を、そのまま見ておられるわけではありません。

「飼い葉桶」というと、すぐに思い起こされるのは、主イエスが誕生された時に寝かされたベッド代わりの寝床です。それは、実際に家畜に食べさせるために用いられていた汚れた「飼い葉桶」であったに違いありません。そこに「救い主」を誕生させたのが、神のみこころでありました。「これは良い、これは悪い」と自分の都合で判断して、勝手に決めつける人間の狭い了見を、見事にひっくり返される働きではないでしょうか。

新年早々から、「緊急事態宣言」が発出されました。コロナ禍は、現在、世界のすべての人々の悩みとなっています。そういう禍いの中にも、神さまはみ手を伸ばされていることを、み言葉を通して深く知りたいと願います。汚らしい飼い葉桶からこそ、豊かな実りは生じるのです。