「星を見たので」マタイによる福音書2章1~12節

こんな新聞記事を読んだ。「火星に手紙を送るには、いくら必要ですか?」。英国に住む5歳の少年が6年前、郵便会社に問い合わせた。回答は当時で1万1600ポンド(約220万円)。少年には想像できない金額だった。米航空宇宙局(NASA)に無人探査車を搭載したロケットを火星へ打ち上げた際の費用などを確認、算出された。郵便会社は「燃料代がとても高い」と高額になる理由を説明したが、宇宙飛行士を夢見る少年は「切手がたくさん必要になるね」と瞳を輝かせたという。

地球というひとつの星から、最も近い場所にある惑星まで、一通の手紙を送るだけでも、莫大な費用が掛かる。現代においても、宇宙は容易に人間の手の届かない、茫漠たる拡がりを持っていることを教えてくれるような話である。他方、こういうニュースも伝えられた。

最初の成果は目には見えなかった。2010年に探査機はやぶさが小惑星「イトカワ」から持ち帰った試料のことだ。大きくても0・1ミリ程度だった。肉眼では確認できなくても宇宙で採集された貴重な微粒子。4年後に能代市で行われたイベントでは、好奇心あふれる子どもたちが食い入るように顕微鏡をのぞき込んでいたのを思い出す。国内外の研究者が徹底的に調べたのだろう。表面の階段状の模様からは、微粒子がイトカワの起源となる天体で45億年前にできたとみられることが分かった。別の研究では、微粒子から水が検出され、特性は地球の水と共通点があることが判明。地球の水はイトカワのような小惑星からもたらされた可能性が示された(12月16日付「北斗星」)。

この星も、広大な宇宙とは無関係に存在しているのではない。この星の生きとし生ける者の生命の源となった「水」は、実は、遥かな宇宙からもたらされた恩恵、賜物であった可能性が高い、という。生きることが生かされることであり、恵みや賜物によって支えられていることを、最先端の宇宙の科学が、解き明かしているのである。

さて、先週はクリスマス礼拝、更にイヴ礼拝の時を与えられ、共にクリスマスを祝い、喜びを共にすることができた。クリスマスは、主イエスのご降誕を記念し、喜び祝う祭りである。降誕劇では、乳飲み子のイエスとマリヤとヨセフの聖家族、最初の訪問者である羊飼いたち、そして東の博士たちが一堂に会して、クライマックスとなるのが普通である。ところが伝統的に、東の博士たちが主イエスにお目見得したのは、誕生の夜ではなく、それから1週間ほど後であったとされている。つまり両者が遭遇するとしたら、羊飼い達がよほど家畜小屋で長逗留していなければ、不可能なのである。ましてや羊を野原に置きっぱなしにして来たのであるから、そんなに長期滞在は難しいだろう。

クリスマスの次の聖日に、伝統的に読まれることになっている聖書の個所は、マタイ福音書の「東方の博士たちの来訪」の記事である。「東方」とは、漠然と広くオリエント地域を指す用語であるから、ペルシャ辺りからやって来た人々、という意味だろう。「占星術の学者」とあるが、これはいささか意訳のし過ぎである。正確には「マギ、知者たち」である。当時の知識人とは、森羅万象すべてを対象にする、よろず学問に通じる者たちであるから「占星術」にも、もちろん造詣は深かったであろう。いつも星を眺めていた訳ではないだろう。遥か彼方に住むその彼らが、ベツレヘムにやって来た、というのは、「その方の星を見た」からであるという。古代では、常人とは違う、傑出した英雄的人物が誕生した際には、天地に異変が起こり、「時の徴」が生じるという素朴な観念があり、それは世界の至る所で見られる。博士たちが見た星とは、どのようなであったのか。

今の季節、澄んだ空気の中に輝く星々は美しいが、冬の大空で一番目立つのは、一番明るい星、おおいぬ座のシリウスである。天空にりんと青く輝いている。二番目に明るい星は、りゅうこつ座という星座のα星(1等星)なのだが、ほとんど見た人はいないと思う。その星は「カノープス」と名付けられ、通称「長寿星」とか「南極老人星」といわれ、とてもおめでたい星として扱われている。どうしてかと言えば、北半球では、南の地平線のごく低いところに、短時間現れるだけで、めったに見ることができないからである。だから見ることが出来たら、とても幸運だというのである。

主イエスの誕生を告げたという星とは、どんな塩梅だったのか、皆さんは想像できるだろうか。煌々と照って、昼間のように闇を輝かす大きな星の光を想像させる。ところが、どうもそうでないらしい。この星の光の告げる所を見て取ることができたのは、どうもこの博士たちしかいなかったようだ。ヘロデ大王の王宮に、東の博士たちがやって来て、事情を知らされてはじめて、ヘロデはじめその家臣たち、祭司長や律法学者、そしてエルサレムの人々が不安を感じ、騒ぎ始めているからである。もちろん博士たちが学問に通じた専門家だったということはあろう。しかし彼ら以外の誰も、星の光に気が付かなかった、ということは、星の光が微かなもので、夜を昼に変える如く煌々と輝く、などという光ではなかったのである。そして博士たちも、旅の途中で、星の光を見失うのである。だからこそ主イエスの誕生したベツレヘムではなく、ヘロデ王宮に足を向けたのである。

神の与えるしるし、導き、招きとは、そのような微かな星の光のようなものかもしれない。マタイの描くクリスマスの記述には、いくつかの象徴がちりばめられている。「星の光」、また「ヨセフの見る夢」、そしてその一番の象徴は、生まればかりの「幼子」、それらは皆、共通して、「小さい」、「はかない」、「微か」なしるしなのである。物語の途中に、旧約の預言者の言葉が挿入される。「ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである」(ミカ5章1節)。旧約本文では、ベツレヘムは「最も小さい町」なのである。

神の示される導きは、確かに人間の目、物差しで見れば、「小さい」、「はかない」、「微か」なしるしかもしれない。エルサレムに比べれば、ちっぽけな小さな町、ベツレヘムで生まれた救い主とは、「馬小屋の中の、飼い葉桶に寝かされている、生まれたばかりの赤ん坊」に過ぎないのである。そして博士たちを導くものは、エルサレムの誰も顧みなかった、かすかな星の微かな光なのである。ところがこの小さなもの、かすかなものが、先立って進み、立ち往生し途方に暮れていた博士たちを、主イエスの下へと導くのである。神は小さく、目立たず、微かなしるしを用いて、救いへと連れていくのである。

こういう文章がある。「大きな壁にぶつかったときに、大切なことはただ一つ。壁の前でちゃんとウロウロしていること (玄田 有史)」。越えられない壁に直面したとき、うずくまっていないでその前でうろつくこと。すると壁の下に小さな穴が見つかり、トンネルが開くかもしれない。ヘリコプターが上空から見つけてくれるかもしれない。「希望は、無駄とか損とかという計算の向こうに見つかったりするもの」だと、労働経済学者はいう。「希望のつくり方」から。(朝日新聞『折々のことば』2015・9・9)