今年も喜びのクリスマスを迎えた、子どもたちもクリスマス・プレゼントが届けられ、うれしい時を過ごしていることだろう。そこでこんな話題から。五味太郎作『まどからおくりもの』(1983年)。この絵本には「しかけ」があり、各ページにくりぬきの窓が開いていて、外から家の中が見える絵が描かれている。ページをめくると、次のページには、その家の中の様子が描かれている。さて、サンタクロースがやってきて、家々をまわり、窓から贈り物を配って歩いて行く。穴あきになった窓からは、家の中の一部分しか見えない。中にいる動物やら子ども姿の一部分だけが見える。サンタはそれをみて「ここは誰々のおうち」と判断し、ふさわしいと思われる物を選ぶのだが、見えるのは一部分だけなので。大雑把な性格のサンタ氏の思いちがいによって、事件がひきおこされる、という次第。思い違いにより、まったくふさわしくない見当違いの贈り物が届けられたり、はてはいないと早とちりして、贈り物をあげなかったりと、結末はどうなるのか、わくわくさせられる。
「しかけ絵本」ではないが、ルカによる福音書も、随所に著者のしかけが巧みに仕掛けられている趣がある。この福音書をものした著者は、優れた時代感覚をもった歴史家であるので、ナザレのイエスの公生涯を、世界史の舞台の中に位置づけようと試みるのである。イスラエルのガリラヤ地方、ナザレ出身のひとりのユダヤ人、イエスという人物、神殿で名高いエルサレムならまだしも、イスラエルの辺境ガリラヤ地方、それもナザレという、現代の考古学的探求によれば、当時の人口はせいぜい多くて八百人程度が暮らす集落であったという、そこに暮らしていた農民大工(生きるために何でもできる仕事をするのである)の生涯である。世界史の舞台からみれば、芥子粒にも及ばない小ささである。しかしその小さくささやかな生涯が、やがてあの「からし種の譬」の如く、世界の歴史、ローマの歴史を変える、そういう(とんでもない?)歴史観をこの福音書で提示したい、これがルカの思惑である。
だからいくばくかのプロローグ(前史)の後に、語り始められるナザレの人の誕生の次第を、1節「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」という具合にアウグストゥスの名を記し、当時の世界の第一人者、世界の著名人、富も権力も地位も他に並ぶことのない人物 彼は「神の子、キリスト」として人々から礼拝され、「ローマの平和」の成就者として崇められた この偉大な皇帝と、敢えて時代が重ね合わされて語り出されるのである。これによって、まことの「神の子、キリスト」とは、ほんとうのところ誰なのか、を読者に問いかけるのである。
まず著者は、皇帝アウグストウスの名を示すことによって、当時の全世界をマクロ的な視点で捉えようとする。皇帝の勅令によって、全世界の住民、辺境のナザレの零細民も従順にその命に従うのである。全世界を牛耳るローマ帝国からすれば、ユダヤなどは数にも上らない弱小の群れに過ぎない。ましてやナザレの大工の若い夫婦の人生など問題にもならない。この妻、マリアは臨月を迎えての旅の途上にある。ベツレヘムで陣痛が始まったというのに、彼らには「泊まる場所がなかった」と言われている。
この章句を巡って、様々な憶測が生まれる。誕生した赤ん坊を「飼い葉桶に寝かせた」と言うからには、そこは「家畜小屋」であったのではないか。農家の納屋のような別棟で家畜小屋が設けられていたのかもしれない。あるいはこの国の東北地方の農家の建物のように、人間の住居部分と家畜の居場所がひとつ屋に同居していた可能性もある。いずれにしても、英訳聖書が「余地がなかった」と訳すように、新生児が、その母が安心して健やかに休めるような居場所はなかった、と著者は言いたいのである。
繁栄と栄華を誇る巨大な帝国というマクロ的視点に立てば、このベツレヘムの飼い葉桶は、あまりに矮小で卑小な人間の生活の現実である。そこで生活している人間のうめきや嘆きや苦しみを、ローマは知る由もないのである。知ったとしても、その政治経済構造にかっちり組み込まれている民衆にとっては、何かできる余地はないのである。もちろん、出産をまじかに控えた夫婦にあれこれ世話をし、できる支援を行う善意の人は身近にいたことだろう。これは現代の世界の有様から考えると、一層切実で深刻な状況となっている。
ルカが問うのは、神のみわざ、その計画はどこで、どのように表されるかなのである。ローマの市民は、「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」を寿ぎ、その立役者であるオクタヴィアヌスを、「アウグストウス、神の子、キリスト」と呼んで賛美した。しかしイスラエルの神、ユダヤの神、辺境の神、しかしまことの神、のご計画はどのようなものなのか。救い主キリストは、ローマ皇帝の暮らす豪奢な宮殿ではなく、居場所もないところに誕生するという。飼い葉桶の中に寝かされるという。ここに歴史家としての著者の、鋭い洞察の目が光っている。
ルカの描く降誕物語の後半は、羊飼いへのみ告げを軸に展開されている。8節以下「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」、神の使いは、これもまたかのナザレからの夫婦と同じく、夜通し群れの番をしている羊飼い、外で野宿している「余地」を持たない人々に、神のみ言葉は告げられるのである。広大な全世界の中にあって、世界の片隅の小さく卑小な自分の居場所も持たない人に、神の腕は伸ばされ、神のお告げが語られるのである。神は、この卑小さのなかに出来事を起こされる。やがてこのささやかで取るに足らない種子が、どのように大きく拡がってゆくのか、この歴史家はその行方を遥かに見晴らそうとするのである。
五味太郎氏の描くサンタ氏は、外に世界にいて、小さな窓から家の中を見て、分かったつもりになって、贈り物を投げ込んで行く。その判断は一方的であり、独断であり、とんちんかんな行為である。人間の為すことは大抵そうであるかもしれない。夜が明け、明るくなった時に、その齟齬に苦笑いをするのである。しかしそれでも、その贈り物を本当に感謝し、有用に用いて、あるいは分かち合って喜び合う、そこにこそ神のご計画の行き着く先がある。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」人間の幸いは、結局、大きさにではなく、今の自分の小さな足元にもたらされる恵みにこそあるだろう。家畜小屋の窓の、内と外に現れている風景を、よくよく味わいたい。