つい最近、こんな文章を読んだ。「作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが初めてインドを旅したときのこと。仏教の聖地で、土産品を売る少年がいた。小学3年生ぐらいだろうか。片言の日本語で『買え、買え』と数珠などを見せてくる。けなげに思えて1個買い求めた。十数年後、再び聖地を訪ねると、声をかけられた。『お久しぶりです』。あの時の少年が立派に成長し、自分で店を構えていた。時を隔てても異国の尼僧の顔を、つい昨日会ったように覚えていてくれた。『時の流れがまるで違う』と寂聴さんは感じ入ったという。日本だとこうはいかない。普段よく見かける人はすぐ見分けられるのに、めったに見かけない顔だと区別できない。年を重ねるにつれ、アイドルがみんな同じに見えるのは、自分が日ごろ見慣れた顔とかけ離れているからだとか」(7月3日付「有明抄」)。
皆さんは、他人の顔を憶えることが得意だろうか。多くの仕事では、それが成果を左右する要因でもあるので、他人の顔をいち早く憶え、相手にも自分の顔を憶えてもらうことが、肝心肝要だと言われる。後半の文章は、身につまされる思いになる。「年を重ねるにつれ、アイドル(芸能人)の顔が皆同じに見え区別できない。皆さんはどうか。しかし「見慣れた顔とかけ離れている」と、区別できないだけでなく、無関係、赤の他人、そして全く関わりがない、と無意識に自分の枠組みから排除する力が生じるということはないか。
それにしても、一期一会の人生と言われる。一度限りの出会い、ほとんど気にも留めない邂逅が多い中で、初めて顔と顔とを合わせて、ほんの少しだけ言葉を交わし、やり取りをした者どおしが、数十年の時を隔て不思議に再会し、かつての出会いをなお覚えているというのは、何ということか。インドの一少年の記憶にも驚かされるが、成長した異国の青年の、かつての面影をそこに見出す瀬戸内氏の記憶力にも、舌を巻くような思いになる。人間の記憶は失われず、忘却は仮の姿なのだろう。だからそんな前のことを、いまさら、と言っても始まらない、例えば戦争を始めとする悲惨な記憶を、もう過ぎ去ったことなどと、と軽々しくいうことはできない。
今日の聖書個所は、本書の著者の手腕の見事さを、良く味わうことができるテキストである。使徒言行録は古代の文学としては、決して短い著作ではない。著者は長い物語が冗漫に陥らないように、話の展開にメリハリを付けながら、読者の心を捉えるべく記している。この個所は、いささか余談、あるいは幕間のような趣を持ち、ユーモア感も溢れる内容を持っている。いわばドタバタ劇的な要素が盛り込まれて構成されていると言える。
現在、なりすましや詐欺行為が横行する世の中であるが、初代教会の時代にも、そういう振る舞いがあったことに、驚くというか、世の常というか、儲けの為なら何でもする、という人間の業の深さを感じさせられる話ではある。教会の働き、そして教会でのパウロの活動を横目で盗み見ていたユダヤ人の祈祷師(エクソシスト)たちが、教会の意匠を勝手に使って、ひと儲けをたくらんだというのである。いわばなりすまし詐欺である。あるいは勝手に他人の商標を偽って、ひと儲けをたくらんだという趣きである。
13節以下「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈禱師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった」。「主イエスの名を唱えて」、ここに古代の宗教行為の中心がある。あらゆる礼拝、あるいは祈りは、「名を唱える」ことで行われる。自分の帰依する神、信じるものの「名前」を繰り返し、大きな声で唱える。何度でも名前を呼び続けることが、肝心だったのである。信じるものの名を呼ぶことこそが、信仰のかたちだったのである。今は条例等で公の場所での音量の規制がかかっているが、かつては選挙運動では、町を練り歩く街宣車が大音量で候補者の名を、一日中連呼していた。「皆様の清き一票を!」、その煩さに閉口して、騒がしい候補者には入れるものかと思うのだが、社会心理学の調査によると、大音量の連呼は、あながち反発だけではなく、集票に大きな効果をもたらす、との結果が確認されるのだという。
そのように、しつこいくらいに、大きな声で、繰り返し叫び続ければ、鈍感な相手であっても、赤の他人のただの知り合いであっても、目を覚まして、聞くだろう。その熱心を認めてくれるだろう、という発想が起こっても不思議ではない。主イエスもそのように教えている。「友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(ルカ11章9節以下)。但し、これは「熱心さが足りない」とばかりの熱心への強迫ではなしに、人生経験が裏打ちされているのだろう。「誰でも心が動く」ということはある、いわば「鬼の目にも涙」である。
だから旧約では十戒で「あなたの主の名を、みだりに(繰り返し)唱えてはならない」と命じるのである。旧約の十戒では、他の宗教が通常行うような、神の名を連呼する、繰り返し呼び続けることを、厳しく禁じている。そのおかげで、ユダヤ人はこの戒めを、余り厳格に守ったために、神の名が聖書に出て来ると、その名を発声することせずに、「アドナイ(主人)」と言い換えたのである。それが、余りに長期間に及んだので、肝心の神の本名を忘れるという事態をも、引き起こされたのである。
確かに、相手の気持ちをこちらに向けるには、効果的かもしれない。しかしそれは相手を自分の意のままに動かそうという下心も頭をもたげるのである。神を自分の思うがままに動かそう、自分の願い通りに事を実現させよう、これほど不遜な思い上がった高慢な心はないだろう。いくら熱心とはいえ、頑張っているとはいえ、それですべて良しとはいかないのである。私たちは、神の恵みを大切に考える。どこにもどんな中にも、人間の最悪の事態の中に、神は恵みを置かれるのである。但し、それは常に神の「よし(肯定)」ばかりで成り立っているのではない。時に神の「いいえ(否定)」によって、恵みが表されることもあることを忘れてはならないだろう。繰り返し使徒言行録でも、「神が道を閉ざされた」あるいは「聖霊がそれを許さなかった」と記される通りである。
ユダヤ人の祈祷師たちは、「勝手に主イエスの名を唱えて」悪霊を払おうとした。すると悪霊が言う「イエスは知っている、パウロも知っている。一体お前らは誰だ!」。そして悪霊によって、この偽り者どもは、裸に剥かれ、傷だらけにされ、散々な目に会わされたので、ほうほうの体で逃げ出したというのである。「生兵法は怪我の元」というお話であるが、主イエスの名を騙り、詐欺を働く者たちが現われるようになった、ということは、教会はそれなりに皆の耳目を集め、地域に根付き、徐々に人々の信頼を得てきたという事実を物語るであろう。
しかし、ここで著者が語りたいのは、宣教や伝道が人間のわざではなくて、ひとえに神のみわざであるということである。パウロもアポロも、テモテもテトスも、神の言葉の伝達者、主イエスの使徒として力を振るった伝道者である。しかし、成長させてくださるのは神なのである。17節「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」。このなりすましの詐欺事件によって、何が起こったか。「主イエスの名は大いにあがめられるようになった」。これは人間が起こした出来事ではない。ただ神が背後に居られて、人間の愚かしい、自分勝手な計画を利用して、ご自分のみわざと変えられている。例え、大声で叫ばなくても、繰り返し名前を連呼しなくても、神はわたしたちが語るよりも先に、求めを聞き、呻きを聞いてくださるのである。だから主イエスキリストのみ名によって、祈ることができるのである。
もう一つ最近読んだ文章を紹介したい。「差別を憎む人には少し残念な実験結果がある。自分とは異なる人種の顔写真を見たとき、脳はどんな反応をするかをカナダの大学が調べたそうだ。顔写真を見ると恐怖や不安など否定的な感情と関係する扁桃(へんとう)体という部分が活発化することが分かった。普段、差別や偏見を嫌う人の脳内でもやはり同じ反応が出る。人間は自分と異なる人たちを見ると、無意識のうちに警戒し、攻撃的にもなる「仕組み」を持っているようである。無論、脳にはこうした反応を抑制する機能も備わっているというからホッとする。だが、普段はコントロールされているはずの偏見や差別が解放されてしまうこともあるという」(7月10日付「筆洗」)。
悪霊が「イエスのことはよく知っている、パウロも知っている」と口にしていることに注目する。「知る」とは、噂で聞き知っている、とか本やメディアから得た机上の知識として知っている、という意味ではない。聖書の「知る」とは、そこに相互のコミュニケーションがあって、深い結びつきや関係が交わされている状態を、「知る」という用語は言い表している。つまり悪霊は、人間よりも神、そして主イエスを深く知っている、のである。逆に言えば、主イエスもまた悪霊のことをよく知っておられるということである。悪霊をも深く知られる方が、私のことをそれ以上に知ってくださっているのである。つまり私のまるごと、罪も悪も、良い所も悪い所も情けない所も、すべてひっくるめて知ってくださっている。ここに主イエスとの出会いがある。人はまさしく出会いによって生き、生かされるのである。