「憐みの器として」ローマの信徒への手紙9章19~28節

今年も8月に入り、盛夏、炎暑の日々が続いている。夏はこの国にとって先の戦争の想い出に連なり、惨禍に深く思いをはせる時でもある。とりわけ敗戦後80年を迎え、巷間では様々な論評が口されているが、やはり「戦争の記憶の風化」が叫ばれ、かつての時代への回帰をも危惧されている。「降る雪や、明治は遠くなりにけり」(中村草田男)どころか「昭和は遠くなりにけり」、昭和100年の年でもある。

この国の「戦後」について、中堅世代からのこういう発言を目にした、少し紹介しよう「私たちは3年前の2月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まるのを目撃した。ある日突然、破壊され、奪われた日常。寒い中、大きな荷物を手に、大人だけでなく小さな子どもやお年寄り、またペットたちもが足場の悪い道を逃げる姿を今も鮮明に覚えている。23年10月には、ハマスによる襲撃をきっかけに、イスラエルによるガザへの猛攻撃が始まった。悲劇は今も続いている」。現代の私たちは、遠くで起きている戦争の実像、実態を、まさにリアルタイムで目撃することになるのだ、という。どういうことか「現代の『戦争』は、SNSのタイムラインにリアルタイムで現れる。私たちは崩れた家屋や爆撃された建物だけでなく、その下にいる人々の助けを求める声も耳にしている。子どもの亡骸を抱えて泣き叫ぶ親や、爆撃で損傷した遺体を目にする日もある。そうして今この瞬間も、燃料も食料もないガザで、凍えて死んでいく子どもたちがいる。ある意味、SNSによって、『戦争』は恐ろしく『身近』なものとなった。遠い国のこととして見ないでいられた時代と、確実にその距離感は変わった。そんな中で迎えた、戦後80年(である)」(雨宮処凛「戦後80年」に考える)。

あまりSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)にふれる機会がない人は、当惑するかもしれないが、フェイクとファクトが交錯し、誹謗中傷によって人の心を追い詰め、世論を左右し誘導し、最近、それが国政選挙や大統領選に大きな影響力を与えることが指摘されている。他方「(戦場で)その下にいる人々の助けを求める声」をリアルタイムで伝え、多くの人々の耳目に直接届けるという、スマホを通しての「身近さ」をどう考えるのか。それを見る者は、単に他人事として、つまり作り物の映画を見るように、ただ映像を眺めているだけなのか。

今日は平和聖日である。読まれた聖書個所はローマへの信徒への手紙9章だが、ここからも戦争に囚われる現代世界に向けての発言を聞くことができるのではないか。冒頭にこう語られている「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」。このみ言葉を、皆さん方はどう受け止めるのか。「神は人を責められるのか」。この少し前の文節に、例えば15節に「『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」とパウロは主張する。すべてこの世は、神の自由な憐み、恵みからことは発している。だからいろいろと不条理や不本意、納得に行かないことがあっても、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」、とこの熱血の使徒は喝破するのだが、いささか高飛車の姿勢のようにも感じられる。しかしこう割り切って考えて、それですっきりと心のつかえがなくなるものでもない。

人は皆、人生で上手く行かない状況を抱え、生きづらさ、手抜きをしている訳でもないのに、なぜか失敗し幸運に恵まれないという経験をする。まあ「運が悪かった」と気を紛らわせ、もう一度気を取り直して、今日一日を生きることができれば、それに越したことはないが、どうも自分がひどく責められているのではないか、あるいはことさら神から謂れなき罰を受けて痛めつけられているのではないか、という思いにふと凝り固まると、事態は膠着する。他の人たちを見ると、みな、運がよく、要領よく、上手く世間の波に乗って世を渡り、不当に優遇されているように見える、「何で私だけが損をするのか」、そのような思いに付きまとわれて、心がとげとげしく攻撃的になる。

現在、放映されている朝ドラについて、こんなコメントが寄せられている「『あんぱん』は、やなせたかしの人生をモチーフとしながら、戦争の中で揺れ動く若者たちの心の軌跡を丁寧に描いている。ドラマが扱うのは、戦火のなかで生きた“兵士の経験”や“戦地の悲惨さ”だけではない。そこに重ねられるのは、『国家の正義』と『個人の良心』のあいだで揺れ動く感情の複雑さである。嵩は、戦地で『加害者』にも『被害者』にもなる。一方のぶは、戦時下の教育者として、正しいと思い込んだ言葉が人を傷つけていたかもしれないという事実に向き合わされる。戦争が終わった後も、彼らの心のなかでは決して“終わらなかった戦争”が続いているのだ」(福島和加子「戦後80年、戦後NHK朝ドラ『あんぱん』に見る戦争の爪痕―のぶと嵩が体現した“正しさ”と沈黙の記憶」)。

「戦争が終わった後も、彼らの心のなかでは決して“終わらなかった戦争”が続いている」という。もうあれから80年も経つのだから、もうすでにそれは過去のことだ、忘れよう、前を向いて生きてゆこう、という風潮もあるが、「終わらない戦争」を見えないところで担い続けているということはないのか。

つい最近、こういう文章を読んだ。「『虐待やDVは、たどっていくと(起因するのは)戦争ではないか』とは、日本公認心理師協会の信田さよ子会長の分析。何人もの女性相談を受けた中、1995年当時に40歳前後だった女性たちが父親から受けた虐待が際立ってすさまじいことが、ずっと謎だったという。その解は、第2次大戦で日本人兵士が負った心の問題を調べた上智大の中村江里准教授の著書『戦争とトラウマ』にあった。戦争に起因する心の病は『戦争トラウマ』『戦争神経症』と呼ばれ、家庭内暴力、アルコール依存、無気力などさまざまな形で現れるとされる。戦地での心の傷を誰にも語らず、語れず。その持って行きようのない苦しみが暴力という形で放たれた例は、程度の差こそあれ多くの家庭にあっただろう。そもそも日本でトラウマという言葉が共有されたのは95年の阪神大震災以降。米国ではベトナム戦争の帰還兵の間で問題となり、治療体制がいち早く確立されたが、日本では家庭や個人の問題にすり替えられてしまった側面がある。信田さんは、今生きづらさを抱える人も、生育歴や家族をたどると戦争が深く影響していることがある、とラジオで話していた」(4月14日付明窓「戦争とトラウマ」)。戦争は終わっても、悲劇はその後なおも続いて行く。

22節「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば」。パウロは人間存在の特質を説明するのに、「土の器」というイメージを用いて比喩的に語る。どのような用途のための器であろうとも、器というものは、一つの役割を持っている。それは中に何かものを入れる、という役目である。器によって中身が引き立つということがある。ところが人間はその「器」の中に、あろうことか「怒り」を盛ってしまったという。「戦争」という怒りを未だに盛り続けて、怒りはあふれて、戦争が終わった後も、それは家族や周りの身近な人々を引き裂き続ける。そこにも注がれているはずの神の憐れみを忘れて、神の見えない恵みなど、あるかないかも知れず、そんなものは力にならないとばかり、放り出してしまったのである。そうなるとただ自分の力だけが頼りであるから、常に自分を脅かすものと、戦っていなくてはならない。自分の力だけで戦おうとする者は、絶えず用心し、警戒していなくてはならないから、「安心、平安」はあり得ず、いつも心も体も穏やかではない。「怒りの器」とはそういう生き方、あり方の喩えである。かつてのパウロがそうであった。しかし怒りに振り回されるならば、いつしか器は欠け、壊れ、粉々に砕かれていくのである。

割れてしまったならば、ものを入れる器としては、もはや役に立たないであろう。土の器であることの宿命として、入れ物としての器は、時が経つにつれて、縁が欠け、ひび割れ、ついに形を失い、バラバラに砕け、破片となって行く。人間の身体も同様である。時と共にすり減り、破れ、ひびが入り、器としての役割を果たせなくなるであろう。ではそれで「土の器」の働きは終わりなのか。燃えないゴミの袋に入れられ、処分されてお終いになるのか。

24節「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」。「憐みの器」という表現は、まさに「割れた器」としての人間を表すのに、ぴったり来るのではないか。「召し出す」、即ち「ある目的のために、選び出し、用いられる」という。古代、割れた土の器の破片は、消し炭で絵や文字を記してメモ帳代わりに用いられた。そのように神は、人間が破片となってしまったとしても、主イエスのみ言葉をそこに記し、他の人々にそのみ言葉の真実を表し、それを成就される、というのである。「もはや私にはできることは何もない」と言われる方があるかもしれないが、土の器のかけらさえも、用いられる方がおられるのである。主イエスも十字架に付けられて、その身体を裂かれ、砕かれた。その砕かれた身体を、神は復活の生命の源とされたではないか。だから神は、どんな人をも「憐みの器」、神の愛を宿す器として、終生、その生命をお用いくださるのである。

最初に紹介した文章の続きを少し、「この国は、貧困や格差、また自民党の裏金をはじめとして今も多くの問題を抱えている。しかし、『戦後80年』を日本全体でもっともっと寿ぎ、祝い、世界にアピールしまくってもいいのではないかと今、声を大にして提案したい。

なぜなら、経済大国でもなくなってきた日本が誇れるのは、もう『戦争してない』くらいしかないと思うからだ」。余りに自嘲的、楽天的と思われるか。ひび割れ砕かれた器にも、役割がある。そこに「平和・シャローム」という神の言葉が記され、語られる。そういう「憐みの器」として務めを私たちは担っていないのであろうか。神は人を今なお、深く憐れんでくださっている。主イエスの十字架によって、その憐みを自らの器に刻みつけたい。