関西地方に「狐の嫁入り」という言い方がある。「天気雨(日が照っているのに、雨がぱらつく現象)」のことを指すが、晴天が見えているのにもかかわらず雨が降ることの不思議さが、まるで狐に化かされているような怪奇現象として表現されたり、あるいは狐の嫁入り行列は、人間には見られないように、偽物の雨を降らせることで人が家に閉じ籠るようにさせ、その間に嫁入り行列をしたという話も伝えられている。
「天気雨」というと、1970年代の初頭に、アメリカのロックバンド・グループ、CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル)によって歌われた『雨を見たかい』“Have You Ever Seen the Rain? ”を想い出す。「ずっと昔に誰かが話してくれた/嵐の前の静けさがあって、そう、それは起こる、時々/その後に、晴れた日に雨が降るんだ、そう、水のような光がキラキラと降り注ぐ、と言うんだ/君は、そういう雨を見たことがあるかい、教えてくれ/晴れた日に降るあの雨のことを」。
この曲が発表された1970年代は、ベトナム戦争が激化していた時期でもあり、アメリカでは、戦争が泥沼化し、まったく正義とは言えない中に、ただ双方の犠牲者だけが増えて行くような不条理さや矛盾した状況を「晴れた日に雨が降る」という風に表現していると解釈されることもあった。かの戦争では、森や田畑、そして住居を無差別に焼き払うおびただしいナパーム弾攻撃を、雨に見立てていると受け止められて、国内では反戦ソングとして放送禁止になったという経緯もあったという。
但し、歌詞を素直に読んで見て、単純に心に浮かぶのは、「晴天の霹靂」と言えるような、幸福の只中に、思わぬ悲しみの事態が生じてくること、それで外面ではにこやかな表情をしていても、内面では雨が降るように、嘆きに満ちている状態を詠っている、と理解できるだろう。
さて今日の聖書個所は、2つの奇跡物語が前後に接続された形で記されている。前半は「重い皮膚病を患った人の癒し」で、共観福音書に共通する伝承が基になっており、マルコの記述にマタイが改変を行ったことが見て取れる。ここでも先に成立していた福音書の記述を踏襲しつつ短縮するというマタイ的手法で記述を簡略化しているが、主イエスと病人のやり取りが、マルコでは幾分長めの状況描写や駆け引きが語られるのに比べて、マタイの方は両者がそれぞれまっすぐ、素直なやり取りによって癒しの物話が展開していることが分かる。
さらに、後半の「百人隊長のしもべの癒し」は、ルカとそしてヨハネとの共通伝承で、マルコには記されていない。もっともヨハネ(4章)の記述はマタイとルカ(7章1節以下)の記述と比較すると、登場人物の素性、人となり、状況設定が随分異なるが、プロットは共通の要素を持っていると見なされるので、元々はひとつの伝承素材(Q)から派生したものだろう。次にマタイとルカの記述を比較するなら、ルカの方が回りくどく、当時の「百人隊長」という組織人の一員としての振る舞い(主イエスに癒しを願うのに、わざわざ仲介役である友人を立てて、使者とする)により現実性を持たせようとしていると言えるだろう。マタイは、百人隊長本人が部下の癒しを懇願するのである。百人隊長の姿勢を描くに、奥ゆかしい態度のルカに引換え、マタイは真っすぐ、素直な姿勢で主イエスに向かうのである。そして彼に向かう主イエスの態度もまた、まっすぐで、素直な姿で記されるのである。
このように「重い皮膚病の人」と「ローマの百人隊長」との出会いの物語を、並列させ記述したのは、マタイの編集意図が強く表れていると言えるだろう。一方は「汚れている」という律法の規定によって、共同体から切り離されている立場にいる者であり、もう一方もまた異邦の軍人として共同体から切り離されている立場の者である。その彼らが、主イエスに対して素直に、まっすぐに向かい、「癒し」を求め、主イエスの方も彼らと実に真っすぐ、素直に向き合っているという描き方は、やはりマタイ特有の価値観が背後に潜んでいると判断できるのではないか。即ち、小さい者の声を素直に聞き、小さい者に真っすぐに向かわれる主イエスの生き方あり方、宣教の方向性が主張されているのである。
通常「素直、まっすぐ」というと、立場が上の者、強い者に対して、下の者、立場が弱い者が従順な態度を示すこと、と一般には理解されている。上司の命令は素より、その心中まで察して、彼の心を斟酌し、それに適う行動を取ることが「素直」と認められるのである。こうしたあり方は古代から現代まで、共通するような人間関係の基礎である。ところがマタイはそうした一方的な主人(パトロン)と使用人(クライエント)の関係のかたちを逸脱する有様を記すのである。斟酌とか立場とか力関係を超えて、主イエスと人は出会い、そこに「癒し」は生じるのである。常に忖度によって人間関係が取り結ばれる、というのはいささかゆがんだ人間関係のかたちではないか。新しい共同体、主イエスのエクレシアにおいては、真に「素直で、まっすぐな」関係が構築される、「素直で、まっすぐ」なのは、実に求める者、出会われる主イエス、相互に交わされる出来事なのだと言えるだろう。そしてそれこそが「癒し」の中核なのである。役職や立場、力関係に支配されて、人はどれほど傷つき抑圧されていることか。
気象学的には、「天気雨」は、雨粒が地上に届く前に雨雲が去ったときや消えてしまったとき、また離れたところで降った雨が強い風で流された場合に起こりことが説明されている。「嘆きや涙」というものは、それらが正直に吐露され、そとに注ぎ出されるならば、その元である「雲」はすでに消え去っているのかもしれない。なぜなら自分だけで抱え、内に込めてしまうと、それらは大きく膨れ上がるからである。但し、嘆きや悲しみをどこに表明するかが、最も肝心な事柄だろう。主イエスとクライエントのまっすぐな関係(心の発露)をマタイは描いているが、まさに心を「どこに向けて」という人間の一番の課題を、深く洞察しているということだろう。まっすぐに素直に、心を向けることのできるひとやもの、そしてところがあることこそが、私たちには何にもまして大切であろう。
「だれにも話さないように気をつけなさい」。「嘆きや涙」は、誰に対しても、いつでもどこでも遠慮なくおおっぴらに顕わにすることはできないものだ。「あなたが信じたとおりになるように」というみ言葉のように、「信仰」、即ち自分の誠実さや真実さが現れるところでしか、表明されないからである。しかしそこにこそ主イエスは立ってくださっているのである。