こういう新聞記事を読んだ。「ベネズエラに続きグリーンランドも勢力下に、とうそぶく米大統領のせいで、小ぶりの地球儀を買い求めた。球体を眺めると、おぼろげだった西半球の国々の位置関係がよく分かる。かの大統領の横暴ぶりも。飽きないもので西半球を隅々まで見回した。東の端にジブラルタル海峡はある。大西洋と地中海の境で、欧州側の岬は今も英国領だ。一枚岩のなす山が大半を占める。『ザ・ロック』と呼ばれ、難攻不落の要塞(ようさい)だった」(1月25日付「天風録」)。
成程、かの大統領はこんなふうに世界を眺めて、遥かな高みからこの星に向かって手を伸ばそうとしているのか、そんな想像が拡がってくるような話題である。今日も王様どころか神様になった気分で地球儀をもてあそんでいるのかもしれない。石油を始めとする地下資源、埋蔵されているレア・アースの動向には心が動いても、その下に生きて、今日もその日一日を暮らしている血の通った人間がいることには、まったく関心はないらしい。しかし神様とはそういう冷たい自分勝手なお方であるのか。
今日はエレミヤ書に目を向ける。この預言者は、旧約の中でも長い期間活動した人として知られている。ユダ王国の末期、繁栄のさ中からその落日の日々の訪れ、そしてバビロニア帝国による圧迫と、さらに侵攻によって祖国が滅亡に至る経緯、ついに神殿はじめエルサレムの町がすべて灰燼に帰し、国の主だった人々がバビロニアに連行され捕囚とされた(バビロン捕囚)激動の時代に働いたのである。彼はアンビバレントな祖国の明暗の光景、ひとつは聖書の国の繁栄と爛熟のありさま、もうひとつはその国が滅亡と崩壊をしてゆくさまを目の当たりにしつつ、神の言葉を語った預言者である。
ここに告げられている言葉は、非常にエレミヤらしく厳しく鋭い調子を持っている。歴史的には、兎にも角にもユダ王国は400年の繁栄を誇って来た。幾度も周囲の国々からの脅威や圧迫にさらされながらも、それでも国力を維持し、国益を確保し、独立を保ち、エルサレム神殿はじめ、宗教制度の充実、国のインフラ整備に力を注いできた。それは決して短い期間ではない。やはりそこでは諸外国との巧みな駆け引き、妥協、迎合、裏切り等、でき得る限りの人間的な知恵を用いての歩みだったのである。
5節「主はこう言われる。お前たちの先祖は/わたしにどんな落ち度があったので/
遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い/空しいものとなってしまった」。この「空しいものの後を追い/空しいものとなってしまった」という言辞の裏側には、イスラエル宗教の純粋さが失われ、異教的なもの、即ち、偶像崇拝、物神崇拝が横行し、国民の間に享楽的で不道徳な振る舞いが蔓延したのだと説明される。宗教史的には確かにそういう道筋をたどったのであろう。経済成長を確保し、繁栄を持続させ、国の独立を死守するためには、きれいごとではやっていけない、現在の政治家が口にするような複雑な駆け引きが介在していたのは論を俟たないであろう。所詮、人間のすること為すことなど古今東西において、大きな違いはないだろう。もはや古臭い考え方ではやっていけない、といってユダもまた時代の趨勢を受け入れてきたのである。ところが問題は、そうした豊かさにしがみつくあり方が「空しいものになってしまった」という所にある。経済活動、国権の維持強化等、諸々の取り組みはそもそも「空しさ」を拒絶し、それから逃れるためではなかったのか、豊かさへの道が「空しさを生んだ」というのはどういう訳か。
その原因についての洞察は鋭い、エレミヤはこう語る、6節「彼らは尋ねもしなかった。
『主はどこにおられるのか/わたしたちをエジプトの地から上らせ/あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地/乾ききった、暗黒の地/だれひとりそこを通らず/人の住まない地に導かれた方は』と」。主の民であるユダの人々が、「主がどこにおられるか」尋ねようとしなかった、というのである。この一連の章句は、皮肉に満ちた表現である。「主は確かに昔、私たちの先祖をエジプトから導いた。しかし神が連れて行ったところは結局、荒れ野で苦労の連続だった。漸くカナンの地に入り一息付けたが、この地で繁栄を実現し富をわが物にしたのは、私たち自身の手の力だったのではないか。一体神様はどこで何をしていたのだか」。カナンの地において、ヤーウェ神の無力さ、貧弱さ、片や偶像の神々の虚栄に目を奪われてしまったということである。
ところがより問題は、8節「祭司たちも尋ねなかった。『主はどこにおられるのか』と。
律法を教える人たちはわたしを理解せず/指導者たちはわたしに背き/預言者たちはバアルによって預言し/助けにならぬものの後を追った」というのである。イエスラエルには伝統的に主に仕える宗教者たちがいる、その彼らは常に、主がどこにおられ、どのような働かれているかを語り、神のみ旨を指し示す務めを果たすはずであった。ところが祭司たちもまた「主はどこにおられるのか」と全く問おうとしない、というのである。エルサレムに「主の神殿」がある、神はそこに鎮座まします。主の神殿がある限り、われわれは安泰だ、と嘯くのである。神が今どこにおられ、何を求め、どのように働かれているか、全く問題にすることなしに、「安泰」だけを語る宗教者たち、これは現在の国の縮図である。
かつてこういう詩を読んだ、「雪がコンコン降る。人間は/その下で暮しているのです」『雪』と題され、1947年山形県山元村で小学生だった石井敏雄氏によって綴られた詩である。今年の大寒波襲来によってもたらされた豪雪の中での生活の苦境を偲ばせる。雪国に暮らす人々の生活は、「その下」にあるという現実を深く顧みさせられる。私たちはいつの間にか「下に」を忘却して、上ばかりを見て、高みばかり望んで、人間が実に「その下で暮らしているのです」という現実を忘れてしまっている。だから躊躇なくミサイルを撃ち込めるし、核兵器を配備することに汲々とし、核廃棄物を始めとする有害ゴミを、短絡的に捨てることもできるのである。ではそれによって「空しさ」が解消したのか。軍拡競争、覇権主義は留まることを知らず、「今だけ、金だけ、自分だけ」の「3だけ」に、多くの国々が血眼になっている。空しさはますばかりである。
そもそも「神はどこにいるのか」と問うことは、即「人間はどこにいるのか」と問うことにつながる。「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:7~8)。神は上にではなく下に上られるのである。それは地に住む人間が、まことに地の上で平和に生きることができるように。人は神ではない、地の上で愛を持って共に生きること以外、安心の途はない。そしてそこにしか喜びはないのである。