祈祷会・聖書の学び 士師記11章29~40節

こういう新聞コラムを読んだ、「知的障がいのある娘はこだわりが強い。柔らかい枕がお気に入りで、夜中に突然起き上がり、周囲をきょろきょろ。たまに間違えたのか、私のおなかの上にこてんと頭を乗せて眠る。腹の柔らかさが心地よいらしい。ほほ笑ましく、不思議な気分にもなる。10年前の夏、娘が生まれたすぐ後に、津久井やまゆり園事件が起こった。19人の入所者が殺害されたことにショックを受けた一方で、まだ娘の障がいが明らかになる前で、どこか人ごとのように憤っていたように思う」(7月29日付「金口木舌」)。

「どこか人ごとのように」、私たちが最も陥りやすく、最も自分を偽る事柄がそれであろう。「正義」の名のもとに、どんなに立派な言葉、いわゆる「正論」を語ったところで、それが「他人事」ならば、何の価値や意味があるだろうか。私たちは「評論家」になってはならない。世間ではとかくコニミュニケーション力の資質が問題にされるが、要は「共感」が一番の問題であり、自分の事柄として、切実に受け止めることができるか、なのである。「関係ない」で済ませてしまえば、一切の出会いは、空しいものとなろう。

ところが問題は、そういう「共感」する力をどのようにして養うか、なのである。人間は成長するにしたがって、その能力を自ずと獲得してゆく、まあいわゆる「幼稚園の砂場での体験」を通して身に着く、というような単純な行程にはならないのである。すべて放って置いて、自分で学べ、は「ネグレクト」であり、裸で生まれた人間にとっては、あまりに世界は過酷過ぎるのである。では一体どのような方法が取れるだろうか。

皆さんは、幼稚園の頃の思い出として、何が記憶に残っているだろうか。弁当の、友人との遊び、お遊戯、おやつ、親のお迎え、熱を出して先生におぶってもらって家に帰った、等など、そういう想い出が、たくさんある方は、「幸いな人」であろう。人間は、良い思いでしか記憶したくないものである。それらに加えて、絵本の読み聞かせ、あるいは紙芝居等、お話を聞いた想い出を上げる人もあるだろう。私個人の経験では「タイタニックの最後」という紙芝居が非常に印象的で、記憶に残っている。氷山に衝突した船が、最後には多くの乗客を乗せたまま、讃美歌の調べに送られ波間に沈んで行く、その有様に深く心を揺さぶっ¥られたのである。つまり、「物語」を通して、人は自分の人生と遥かかけ離れた事柄を、自分自身に密に関わるものとして理解し、そこで共感を味わい、共感することを覚え、共に生きる姿勢を育んで行くと言えるのではないか。

士師記の11章は、「エフタの物語」で、いわゆる「悲劇」である。そのあらすじを示せば以下の通り。エフタは遊女の子であったため、兄弟たちから疎んじられ、家族から疎遠となった。彼の母は聖所に仕える巫女、神殿娼婦であったようだ。豊穣祭儀には、そのような役割の巫女が必要とされる。しかしそれは「聖」であるため、その子もまたそのような者として宗教上の禁忌となり、家族関係の希薄さをも生んだのであろう。早くから家族を離れたとあるが、共同体の庇護からの逸脱者、つまり無法者となった、ということであるが、「無法者」とはいわゆる犯罪者のことではなく、共同体の法に縛られない自由な者、勇士なのである。そして荒野で同類の者たちの頭領となり、武勇で知られるようになった。その後、アンモン人に攻められて危機に陥った故郷の長老たちが、腕っぷしの強い、ならず者たちに人望の厚いエフタに助力を求め、軍の指揮官に任命する。戦いの前、エフタは神に「アンモン人に勝利できたら、戦勝後、家から最初に出会う者を、犠牲(いけにえ)として献げる」と誓う。彼は戦いに大勝利して帰宅するが、最初に出会ったのは、タンバリンを叩き踊りながら喜び迎えた愛娘であった。エフタは自分の服を裂いて激しく嘆くが、後の祭り、娘は父の誓いの通り、犠牲として命を捧げた、という。

士師記には「勇士」とされる人物が幾人も登場するが、エフタ物語には同じ士師記に伝えられる「サムソンの物語」と文学構成が非常に似ているところがある。即ち、主人公が並々ならぬ力を発揮する「英雄」でありながら、最後に悲劇的な結末を迎える、という筋書きである。そして聖書以外の神話、伝説でも同様に「英雄」の悲劇的な結末が語られる場合が多い。その理由として、それらが「語りの文学」あるがゆえに、聞き手の心に強く訴える要素が必要となり、それが「悲劇的」結末を生む、という文学上の仕掛けである。やはり庶民は「お涙頂戴」的な話を好むのである。かけ離れた人生、資質、能力を具現する人物が、やはりどこか不条理な運命にもてあそばれて、悲劇的な仕打ちを被る、これは物語を聞く者が、己の人生と引き比べて、共感することで物語との一体化を促し、ひいては共同体の紐帯を深める働きをもたらしたであろう。共同体とは、同じ物語を共有する者たちの集団である。

さらに、それら英雄たちは常人にはない傑出した力量を持ちながら、ちょっとした油断や弱点によって大きな危機に直面するという人間の限界も示されていることが挙げられる。エフタの場合は、戦勝祈願にあたって、「安易な」と評されるが、やはり彼としては精一杯の克己複礼の証であったろうが、それがどんな事態を引き起こすかまでは、思慮がめぐらされていない。そこにやはり人間としての「英雄」の限界が示されているであろう。過ちを犯し、運命に翻弄されて苦悩するエフタの姿には、同じ「弱さ」を持つ人間として深い共感が生まれるのである。

エフタの誓いによる「娘の犠牲」という物語の結末は、これを読む人に多くの議論を呼び覚ましたようだ。律法学者たちによって、エフタの娘が本当に犠牲に供されたのか、その是非を巡って大議論がなされて来たようである。その歴史において、エフタの娘は「神の意志によって犠牲になった殉教者」などではなく、「指導者の無知、高慢、そして律法の誤用によって生み出された、最も哀れな被害者」として記憶されており、リーダーが謙虚さと律法の正しい知識を欠いたときに、どれほど恐ろしい悲劇が起きるかを示す、最大の教訓の書として受け止められてきたという(カダリ・タマル「エフタの娘、ミドラシュとアガダー」)。

律法学者たちの議論をよそに、主イエスは、「あなたがたは一切、誓ってはならない」と厳しく戒めている。人間は、自らの誠実さの証として神に誓うが、それがいかに、高慢で思慮足らずで、悲惨につながることかよくよくご存じだったのだろう。

初めに紹介したコラムの続きを少し、「『共に生きる』。言葉にしてみれば、なんとたやすく、そして実現することの難しいことか。それでも追い求めなくては。障がいがあるからと誰かの命を軽く扱うような社会に暮らすのは、まっぴらごめんだ」。相手が言うことを聞かないとすぐにミサイルを投下する、大国の指導者の蛮行がある。その下に生きている人々、そこには子どもや高齢者や女性、家族や家庭の営みがある、そういう生命や生活について、まったく想像することができないのである。せめて私たちは、そういう蛮行に「まっぴらごめんだ」いえる共感の心を持ち続けたい。