今年も8月6日、9日が巡って来た。今日は長崎では81回目の「平和祈念式典」が催されている。かの地のミッション・スクールに勤めている、わたしの同窓の牧師が、常日頃、こう語っている。「この学校の生徒は、8月9日が何の日か、全員が皆憶えて巣立って行く」。この日には、学院の慰霊碑の前に全校生徒職員が参列し、「戦争は地獄だ“War is Hell”」と全員で唱和し、慰霊碑に一人ずつ水を掛けてゆく。「水をください」と最後の願いを口にしたかつての学友を想い起して、のことである。これは原爆投下の惨劇の中で被爆した学院長の言葉であるというが、いわば学校のクレド(信仰告白)ともなっている。信仰告白とは、その裏側に命が掛っている、とつくづく思わされる。
8月は、この国の新聞各社も、戦争を想起し、追悼する記事を紙面に載せる。こういうコラム(琉球新報)を読んだ。「親が子どもに贈る最初のプレゼントは名前だとされる。親は寝る間を惜しんで、時には家族や親類と相談しながら、この世に生を受けたわが子への贈り物を紡ぎ出す。言葉の意味や声に出して読んだ際の響き、文字の組み合わせや画数に至るまで、一つの名前には深い願いや思いが込められる。子どもたちは親からもらった名前と共に人生を歩む。糸満市摩文仁の平和の礎には数多くの名前が刻まれる。年齢や性別、出身地や国籍はさまざまだ。共通しているのは沖縄戦などで命を落としたということ。24万人を超える人々が生きた証しを示す」((金口木舌7月28日付)。
家族の絆は、実に「名前」にあると綴っている。そして名前は単に他と識別するための「記号」ではなくして、最初の「プレゼント」であり、「名前と共に人生を歩む、生きた証」である。だから家族は、偶々、どこそこの家に生まれた、その家に同居しているという状態をいうのではなく、名前で呼び合う関係性のことを言う。最初から家というものがあって、そこに所属していることが大事なのではなくて、名前を呼び合うことで、家族になって行くのであり、最初から「家族」というものが完成している訳ではない。
今日の聖書に、31節「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という創世記2章の文言が引用されているが、「人は父と母を離れて」、肉の親と、血の繋がりとを離れて、「離れる」とは「距離を置く」ということで、身体的精神的、さらに宗教的、さまざまな意味での「別離」によって、家族がかたち造られて行く、というのである。そして「別れ」と「愛」とは、どこかで、密接に繋がっている。
さて、今日はエフェソ書からお話をする。この個所は「家庭訓」と呼ばれるテキストである。同じような家庭への訓戒が、コロサイ書、ペトロの手紙等の、新約の中で、最も後の時代に書かれた書物群に見いだせる。紀元1世紀末から2世紀初頭の教会の中で、議論の中心として語られていた事柄が、伝承の下地になっているのだろう。それで「家、家庭」という問題が、紀元2世紀の教会の重要な課題であったことが分かるのである。ヘレニズムの世界では、「家庭訓」、つまり家庭の秩序を教え、その成員ひとり一人に守るべき約束事を告知することが、家長の義務、家々の習慣であったという。いわゆる世間から教会が問われたのであろう。「家、家庭」について、教会はどう考えるのか。あなたがたは家庭や家族を大事に考えていないのか。こう問われた背景には、主イエスが語ったみ言葉が、かなり過激な内容を持っていたからである。曰く「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10章37-節)。
このみ言葉も、終末的な響きを持っている教えである。初代教会、最初そこに集った人々は、終末的希望に生きていた。まもなく世界は終りを迎える、再び復活の主が来たり、神の国が完成する。その時にはこの世の秩序のすべて、家庭や家族も含めて、が無くなってしまう。だから神の国以外の世俗のことで、あれこれ、心を使い、思い煩うのは罪だと考えたのである。家、家族の者たちもまた同様で、一人ひとりが、てんでんこに自分の救いを達成しなければならない危急の時だ、というのである。終末は津波のように来たれり。
しかしやがて時代が移り、終末の遅延が語られるようになった。神はすべての人が悔い改めるように、ひととき終末を猶予してくださっている。聞いて信じるかどうかはともかく、この世のすべての人が福音を兎にも角にも耳にするまでは、神は忍耐し待っていてくださっているのだ。すると、今度は日常の生きる場「家、家庭」がクローズアップされて来るのである。初代教会の人々にとっては、真の家、真実の家庭は「教会」であった。教会に集う人々こそが、真の家族、神の家族であった。それならば世俗の家庭、家とは一体どういう意味を持つのか、その問いへの応答が、今日のテキストなのである。
今日の私たちからすれば、ここに語られる文言はどういう質のものであろうか。後半は「奴隷たち」への教えが記されている。奴隷制度を当然視していて、これに対する批判は此処にはない。奴隷は生かさず殺さず、徹底的にこき使われ、搾取されたかというと、それ程単純ではない。そもそも奴隷は高価なのである。主人の性格によりけりだが、賢い主人は、一人ひとりの奴隷の能力や資質を鋭く見抜き、有効に用いようとしたのである。人間を賢く働かせようとするなら、脅しだけでは駄目である。奴隷の中には主人の右腕として、家の興隆や繁栄にすこぶる功績があった者もいた。そして主人はその努力にきちんとした形で報いたのである。
最初の訓戒「妻たちよ」、「仕えなさい、主に仕えるように」、「夫は妻の頭」、これらの言葉はここだけ取り上げると、今の私たちに、「当惑」として迫ってくる。そのまま素直に聞けるだろうか。「妻が全ての面で、夫に仕えるべきです」。少し聖書学的な裏話をすると、こういうかなり妻に対して、上から目線の言葉がどうして語られるかと言えば、やはりこの時代の教会の実情や実態が反映されているということである。日々の教会の運営が誰によって、どのようになされていたのかが。頭が上がらなかったのは、どちらか。現在も同じようなのかもしれないが、こういう言葉の裏側に透けて見えるのである。わざわざこう言わなければならない、というのっぴきならない事情を、皆さんは汲み取ることができるか。
そしてこの個所で、最も考えさせられるのは、やはり親子の関係についてだろう。子に対しては「どんなことに対しても、両親に従いなさい」。「両親に従え」というみ言葉を、今の子どもたちはどう聞くだろうか。面白いのは、最初は「両親」となっていて、次には「父親よ」という勧告が来ている。やはり親の問題は、父親がらみである場合が多いということか。「子どもを怒らせるな」。この言葉は少し味気ない。キレさせるな、いらいらさせるなという意味合いだが、これを根拠づける前の言葉「幸福になる、長く生きるために」、人生を台無しにしないように、後悔しないように、という意味合いなのだが、それでは、子どもは果たして素直に耳を傾けるだろうか。子どもは自らこうと決めたら、親がどうあれ、同意見をしたところで。自分が決めたように歩むものだ。かえって「自らこう」を持たない子どもの方が心配だろう。
いやはや、どれも尤もな仰せであるが、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われると、いささか難儀な訓戒である。ただ、この家庭訓が、当時のヘレニズムの常識と異なっているのは、妻や子どもや奴隷ばかりでなく(つまり弱く、従う立場の者たちとみなされていた者たちだけでなく)、普通は家長が家族の諸々に訓戒を垂れる、という風情なのだが、夫、父親、主人という上の強い立場の者に対しても、同じように心得を語っていることである。そして、最も異なるのは、「主にあって、主にふさわしく、主に喜ばれるために、主を畏れつつ」という言葉が付け加えられていることである。「家庭」という最も基本的な人間の生きる場で、夫と妻、親と子、主人と奴隷という人間関係は、ただこの双方の力関係によって、成り立つのではないことが強調されていることである。家庭の中の人間関係も、ただそこにいる人間だけでは、健やかな関係は営めない。人間だけでは必ず破たんするということである。だから、み言葉はこう語る。30節「わたしたちはキリストの体の一部なのです」。人間と人間のつながりの根本に「主がおられ」その絆によって、結ばれているということなのである。それは祈りであるし、とりなしであるし、ゆるしであるし、叱責もあるだろうが、根本に、主の働きを、主の慈しみ、憐れみを求めるしか、その絆は保たれないのである。
「キリストの体の一部」、「一部」とは、「肢体」であり、全体を構成する欠かせない部分、それがなくなってしまったら、からだ全体が動かなくなってしまう、死んでしまうというなくてならないパーツのことである。現代の医学では、人間の身体の諸器官、すべての部分が互いに呼びかけ合って、必要を訴え、その必要が満たされて、生命が保たれていることが説かれている。この「呼応関係、応答性、責任性」を、「キリストの体の一部」という表現は意図している。「呼応関係」というからには、「おい、ちょっと、おまえ、あんた」というような取ってつけた呼名で、ことを済ますという訳にはいかないだろう。子ども讃美歌に「ひとり一人の名前を呼んで」という歌があるが、そのような呼び方であり、私たちもまた「主の名、イエスの名」によって呼びかけるのである。そのようにして、からだは生きてゆくのである。そして名前で呼び合うような関係こそが、家庭の中における「自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです」という関係性だろうし、4節「父親たち、子供を怒らせては(いらいらさせては)なりません。主がしつけ諭されるように(パイデイア、後ろ姿で示す、主が十字架に向かう背中によって)、育てなさい」という子育てのあり方につながるだろう。そしてその根源には、家の存続とか、立身出世とか、商売繁盛とかが目されているのではなくて、2節「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」、即ち「キリストの愛によって、押し出されて歩む、ということである。
最初に紹介したコラム記事の続き、「平和の礎に刻まれた人たちの名前を読み上げる集いが今年も始まった。戦没者の名前を声に乗せて発すると、一人一人の人生が立体的に浮かび上がる。誰もが平和な日常を送っていたのだろう。全てを奪った戦争が憎い。今年も慰霊の月が巡ってきた。平和の礎や各地の慰霊碑に刻まれた名前は、悲惨な沖縄戦で多数の命が失われたことを現在に伝える。戦争さえなければ笑顔で幸せな日々を過ごしていたはずだ。その重みを受け止め、平和な沖縄を守り抜くことを誓う」。
名前を呼ばなければ、ただの他人、どころか無関心な「もの」と同じになってしまう。戦争はそういう中で遂行される。「名前を声に乗せて発すると。ひとり一人の人生がり体的に浮かび上がる」、そうすることで、ようやく人と人とが人間としての関係を獲得する。そこに「平和の礎」はある。主イエスが出会った人、ひとり一人を名前を呼んで招かれたように。