2015年 8月16日 主日礼拝・説教要約
説教『神の国のために何を捨てるのか』(ルカ18:18~30)
◎ 先週の礼拝後、平和集会を持ち、100歳になられた塚口美代子姉と竹山晴夫兄の戦争体験を聞きました。広島で被爆された竹山兄が訴えておられるのは「広島・長崎を忘れるな」です。戦争のことを忘れた時、人は戦争を起こします。鶴川北教会は戦争体験を語り継いできました。これは教会の使命の一です。平和を祈って行きましょう。
◎ さて今日も聖書の御言葉からメッセージを聴いて参りましょう。今日の御言葉はルカ18:18~30です。ある議員が主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねたら、主は「持っている物をすべて売り払い、貧しい人に施し、私に従って来なさい」と言われたという話です。今日は「信仰とは何か」「なぜ、すべてを捨てなければならないのか」「どうしたら捨てることができるのか」など3つのことを学びたいと思います。
◎ まず第一に、今日の前半の記事、18:18~23を通して「信仰とは何か」を見て行きましょう。18:18で議員は「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができますか」と尋ねます。「何をすれば」と尋ねた。ここに彼の問題が見えてきます。というのは、永遠の命・神の救いと恵みは、人間が努力して獲得する物ではないからです。ローマの手紙3:20以下に「人が義とされるのは律法の行いによってではなく、信仰による」とあるように、人は行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる。これがキリスト信仰の神髄です。とこらが彼は「何をすれば」と尋ねている。ここに律法主義的な信仰に生きていた彼の信仰の問題があったのです。
◎そのような彼に対し、主は信仰を教えます。まず「なぜ、私を善いと言うのか。神お一人のほか善い者は誰もいない」と教えます。「善い」=アガトスとは、ローマ12:2「何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ」とあるように、常に神に対して用いられています。主は「善き方」である神に目を向けよと教えるのです。続けて、主は「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬えという掟を知っているはずだ」言います。すると彼は「そういうことは皆、子どもの頃から守ってきました」と答えます。彼は律法を守って来たという自信があったのでしょう。しかし、信仰とは自分に依り頼むことではなく、神に依り頼むことです。このことを彼は知らないのです。主は、そういう彼に言います、「あなたに欠けている物が一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。それから私に従いなさい」と。全財産を捨てることは実に難しいことです。
人はとても実行できないことを要求された時、自分の無力を知り、絶望し、そこで初めて神に依り頼む者になります。実際、彼は悲しみ、苦しみます。彼は金持ちで財産を捨てきれませんでした。しかし、この苦しみは神に依り頼む信仰を得るためには必要でした。主は、彼が本当の信仰へと歩むために試練を与えられたのでした。信仰とは、自分に依り頼むことではなく、ただ神に依り頼むことである。このことを主は彼に教えようとされたのでした。
◎しかし、なぜ、主は彼に対して全財産を捨てるように命じたのでしょうか。これが今日学ぶ第二のことです。18:29・30では、財産だけでなく、「家・妻・兄弟・両親・子どもを捨てた者は誰でもこの世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」とあります。主はなぜ、家族や財産を捨てることを求めたのでしょうか。それは地上の物によっては神の命・救い・恵みを得られないからです。ただ神によってしか得られないのです。
ところが、私達はお金や財産、家族を第一のものにしてしまいます。地上の物に心を奪われます。しかし、地上の物によっては神の命を得られないのです。むろん、地上の物を捨てることは難しいことです。主は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われています。詩人の八木重吉は「裸になって飛び出し、キリストの足元にひざまずきたい。しかし、私には、妻と子があります。妻と子は捨てることはできない。ここに私の詩があります」と書いています。そういう苦悩の中で重吉は信仰に生きたのです。私達はすべてを捨てて主に従うことはできません。問題は、地上の物ではなく、神を第一として生きることです。神を、主イエスを、第一として生きること。これがこの世の物をすべて捨てて生きよと命じられた意味であると言っていいでしょう。
◎では、どのようにしたらこの世の物を捨てることができるのでしょうか。これが今日、学ぶ第3のことです。
その問いに対して主は何と答えておられるか。それは「人間にはできないが、神にはできる」です。それはどういう意味でしょうか。それは例えばザアカイを見ればわかります。徴税人の頭・ザアカイは主に声を掛けられ、一緒に食事をした際、喜びのあまりこう言っています。「主よ、私は財産の半分を貧しい人達に施します。誰かからだまし取っていたら4倍にして返します」と。主の愛がザアカイの心を動かし、変えたのです。弟子ペテロも主が十字架につけられた後、自分に絶望し故郷に帰ります。そのペトロの前に復活の主が現れ、愛と赦しを与えました。
その後、ペトロは生まれ変わり、命を懸けて主の福音を伝えました。伝道者パウロも復活の主に出会い、大きく変えられ、命懸けで福音を伝えました。彼はこう書いています。「主キリスト・イエスを知ることのあまりのしばらしさに今では一切を損失と見ています」と。私達は神の力・主の愛によって主に従う者に変えられていくのです。