説教『平和と和解への道』(マタイ26:56)

2015年 8月2日    平和聖日礼拝・説教要約
説教『平和と和解への道』(マタイ26:56)

p_036
◎ 今日は8月第1主日、平和聖日を迎えています。今日は、御言葉を通して平和について考えると共に平和のために共に祈って行きたいと思います。8月を迎えると私達はどうしても70年前に敗戦を迎えた第二次世界大戦のことを思い起こします。特に今年は戦後70周年となっており、特別な思いが湧いてきます。今年は安倍内閣から安保法案が提案され、国会で審議しているだけに真の平和とは何かが問われています。戦後70年を経て、私達が忘れてはならないことは、戦争の悲惨さです。日本人だけでも約310万人、アジア全体で約2000万人、世界全体で約5000万人の犠牲があったと言われています。戦争を体験した人達の切実な思いは、もう二度と戦争はしてはならないという思いでした。その思いは日本国憲法第9条に深く刻まれています。戦後、日本人は戦争の放棄と戦力の不保持を決断したのでした。憲法前文でも平和な国づくりと世界平和に貢献できる国づくりを決意しています。この平和主義は、戦後、日本において70年間、引き継がれ、一貫して守られてきたのでした。

◎先週、河上丈太郎という人の日記を読みました。大学で政治学を教え、後に社会党の委員長になった人です。熱心なクリスチャンで十字架委員長と言われました。彼は「日本は原爆の唯一の被爆国であり、平和憲法を持っている。この二つの柱こそ日本が世界の平和をもたらす大きな力です」と書いています。私はそれにもう一つ付け加えたい。それは日本が戦争の加害国であったことです。日本人の犠牲者は約310万人ですが、中国の犠牲者は約1000万人です。その他、日本は朝鮮・フィリピン・インドネシアなどに侵略し、多くの犠牲者を出した。被爆国であり、平和憲法があり、さらにこの加害責任からも日本は世界平和をつくり出す責務があると思います。

◎ しかし、私達キリスト者と教会は、世界平和のために尽力すべき、さらに深い理由を持っています。それは、主イエスを信じ、その愛と恵み、平和を受けた者として地上の平和をつくり出すことが主イエスによって求められているからです。では、どのような平和をつくり出すのか。そのためには聖書に書かれた平和について知る必要があります。旧約聖書を読むと、平和という言葉よりも戦いという言葉の方が多い。特にヨシュアに率いられたイスラエルの民が約束の地を獲得するために先住民と戦う場面が数多く描かれています。それは聖なる戦い、聖戦であるとの信仰があったからです。これは今日的には慎重に読む必要があります。しかし、紀元前8世紀、北方・東方から南下した大国に苦しめられた頃から変化していきます。イザヤ書2章には「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは、槍を打ち直して鋤とし、剣を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ばない」とあります。ミカ書にもこれと同じ言葉があり、国連本部の壁に刻まれています。さらにイザヤ11章には強い者と弱い者が共存する世界が描かれています。そのような終末的な平和な世界像、正義と公平と共生の世界像が、大国に苦しめられた時に示されていることは大きな意味を持つと言えます。

◎ このイザヤに示された終末的平和がこの地上に始まった、神の国は始まった、とするのが新約の信仰です。それは、言うまでもなく主イエスの到来によって始まりました。主イエスによって終末的平和は始まったというのが初代教会の人々の信仰でした。使徒パウロの手紙を読むと「キリストの平和」「平和の主イエス」という言葉が多く見られます。主イエスと平和は一つだったのです。では「キリストの平和」とはどういう平和でしょうか。それは主イエスがもたらした和解に基づく平和です。主は十字架に架かり、私達の罪を赦し、神と和解させてくださった。その十字架は私自身の内部における和解、人間同士の和解ももたらしてくださった。主が私達に平和をもたらしてくださったのです。エフェソの手紙2章にあるように、「キリストは私達の平和であり、このキリストによって敵意が滅ぼされたのです」。十字架は神と私達・私達の内部・人間同士の敵意を滅ぼしたのです。

◎ この「敵も味方もない、私達は一つである」とは、主イエスの教えそのものです。主は「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられました。神様の前に敵も味方もない、一つである。そう教えた主が、ご自分の命をお捧げになられたことで敵意は滅ぼされ、平和が実現したのでした。これが「キリストの平和」です。この平和と地上の平和は異なります。当時のローマの時代には「ローマの平和」と言われました。強大な軍事力によって保たれている平和のことです。この軍事力によって担保された「ローマの平和」は今日まで続いています。東西冷戦が崩壊した今も軍事力による安全保障によって平和が保たれています。それに対する「キリストの平和」は、敵意は滅ぼされたという十字架に基づく平和です。「剣を取る者は剣にて滅びる」と剣を放棄した平和、愛と信頼に基づく平和です。この平和こそ今日目指すべき平和です。今から70年前に処刑されたボンヘッファーは、「平和と安全は違う。平和は安全保障の反対である。安全を求めることは相手を信頼しないこと。武器による戦いに勝利はない。神と共なる戦いのみが勝利を収める。平和とはすべてを神に委ねることだ」と書いています。愛と信頼による平和は憲法9条の根幹です。戦争と武器の放棄による平和を構築することが求められているのです。