2015年 8月23日 主日礼拝(井上大衛先生)・説教要約
説教『ハッピーエンドは最後に来る』(マタイ7:7~12)
◎ 今日は鶴川北教会の礼拝に招いていただき、心より感謝します。お呼びいただいたのはこれで何回目でしょうか。来るたびに、この教会は熱気のある教会だなと思っていましたら、それは、いつも8月の熱い時期だからだったということに今、気が付きました。さて、私は映画が好きなのですが、忙しくてDVDを借りて観ることが多くなりました。DVDだと途中で止めることができます。便利になると言うことは選択できると言うことです。途中で止めることができる。それは逆に言えば不便に堪えられなくなったということです。もちろん、途中で止めることも必要な時があります。例えば、第二次世界大戦で日本人は約310万人亡くなりました。その内、民間人は約80万人です。さらにその内、54万人は1945年(昭和20年)3月以降に亡くなっています。戦争を早く止めておけば多くの人は死なずに済んだのです。1981年にローマ法王が来日したことがあります。その際、法王は「戦争は人間の仕業です」とスピーチしました。戦争は人間が起こすものです。人間の責任で行うものです。戦争を起こすのも、途中で止めるのも人間の責任です。人間の責任で止めなければならないものがあるのです。
◎しかし、途中で止めてはならないことがあります。それは「生きる」ということです。それはなぜか。それは生きることは自分で決めて始めたものではないからです。私達の命は自分のものでありながら、自分のものではない。神様から一方的にあたえられたものです。いわば神様から預かったものと言えます。それはすべての命に言えることです。だから、生きると言うこと、与えられた命をまっとうすることは私達の責任なのです。時々、あなたは神様を信じますかと尋ねる人がいますが、神様を信じるとは、何か地球外生物がいるように神様の存在を信じることではありません。神を信じるとは、あるいは、信仰とは、自分の命について希望を持ち続けると言うこと、自分の命に意味があると信じ続けること、そして、すべての命について、そのように信じることです。私に命を与えてくださった方が、自分の命を用いて何かを成就させようとしておられる、ということを信じることです。だから、もし人生にハッピーエンドを求めるのであれば、最後まで人生をいきなければなりません。ハッピーエンドは最後に来るからです。生きることを途中で止めたならば、自分の人生の意味を知ることはできません。人生を途中で投げ出したりしてはなりません。まして、他人の命を奪うことなど決して許されません。
◎ そして、さらに、私達が心に覚えておくべきことは、究極のハッピーエンドとは真の神のみ旨・御心が成就することだということです。主イエスは「神の国と神の義を求めよ」と教えられましたが、そのことを真剣に受け止めなければなりません。「神の国と神の義を求めよ」と訳されていますが、「求める」とは「捜す」=ゼーテイテということです。「求める」とは、まだ実現していないものを引き寄せようとすることです。それに対して「捜す」とは、すでに実現している物を前提としています。捜すとは、すでに実現しているものを見出そうとすることです。では、どうしたらそれを見出すことができるのでしょうか。それはどこに見出すことができるのでしょうか。ルカ17:21で主イエスは「神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものではない。実に神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。「神の国はあなたがたの間にある」とはどういうことでしょうか。そのヒントになるのが、マタイ7:12の言葉「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」です。つまり、主イエスは「人にしてもらいたいことを人にする」こと、分かりやすく言えば、「互いに助け合い、互いに仕え合う生活を続けること」が、旧約聖書全体が教えていることだというのです。キリスト教は戒律の宗教ではありません、むしろ、戒律から解放するものです。神の懲罰を恐れて生活することが信仰ではありません。むしろ、希望と信頼をもって人に仕え合うことへと招かれているのです。そのような生活、互いに助け合い、互いに思いやり、互いに仕え合う生活の中に「神の国と神の義」が実現して現実を見ることができると、私は信じます
◎ だから、どうか、私達が、一人一人の自分の願いとしてのハッピーエンドを見る前に、そして、何よりも神が既に用意しておられる、神のみ旨が成就すると言うハッピーエンドに至る前に、つまり、神の国と義を見出す前に、絶望することがないように、絶望に屈することがないように、神様の支えを祈り求めたいと思います。
◎ 祈ります。主なる神様、あなたがわたしどもに時間を与えてくださったことを感謝します。時間としての命を預けられている間、あなたの御心を尋ねるものとしてください。そして、あなたの御心の成就するところを捜し求めるものでありますように、そのために必要な信仰と希望と愛を豊かに注いでください。