皆さんはゴーヤー(にがうり)がお好みだろうか。沖縄の新聞コラムにこうあった「見てくれや食味で散々な評価の野菜と言えば、ゴーヤーもその一つに挙げられよう。『ぶつぶつの表皮は見るからに不気味』『あの苦さが嫌い』。過去の本紙をめくっても、そんな『苦い』評価の文章が目につく。ところが言いたいことは別にあって、それがなんともいい。『大人になっても絶対食べない』と宣言した女性は『結婚した頃から、なぜか食べられるようになり、おいしい』。年齢を重ねて味覚が変わったり、繰り返し食べさせられたり。味わいの変化は経験もあるが、ほかの要因も。人がおいしく食べるのを見て嫌悪感も変わるとか」(5月8日付「金口木舌」)。
知らずに初めて食べた時、あまりの苦さに一口だけで辟易し、ギブアップした「苦い」想い出がある。ところが今は、自分の方からリクエストするようになったから不思議である。「苦さ」(「辛さ」もそうか)という極端な味覚は、経験を積み重ねることで、病みつきになるものなのか、今では「病膏肓」と言ってもいいくらいである。そういえば、一昔前は、スーパーでその野菜を目にすることはほとんどなかったように思う。ところが現在はほぼ一年中野菜コーナーにその「無骨な姿」を見かけるのは、私と同じような経験をして、病みつきになった方が多いということか。いささか大げさに言えば、あの時、見た目の姿かたちが、後に目が開かれる縁になろうとは、思いがけないことである。
ヨハネ福音書9章はすべて、「目の見えない人の癒し」の物語に費やされており、構成は三部、三幕仕立てである。1~7節には「主イエスとその一行が通りすがりの盲人と出会い、弟子たちと主イエスの問答、そして癒し」が語られる。次いで8~34節での物語の大部分は、癒された盲人の「その後」の振る舞い、彼の言動が綴られる。そして35~41節には、事の顛末が記されて、主イエスの語り(宣告)によって、物語が閉じられる。非常にかっちりしたドラマのように構成されている。今日の個所は、その三幕目、癒された人を巡って主イエスとファリサイ派の人々との議論が展開されるという塩梅である。そしてその議論の根底にあるのは、「目の見えなかった人が、見えるようになった」という事態を巡ってのことである。何か今までと違うことが生じると、人間はどうも安心できなくなるらしい。たとえそれが善いことであっても、どうも疑心暗鬼に陥り、既存のものが揺らいで倒壊してしまうような不安を覚えるようだ。基本的には、人間はすべからく「保守的」な感覚を持ち、それで危険を回避し、生き延びて来たとも言えるだろう。
ところが聖書が語る所、神のみわざは常に、「地の基震い動く(イザヤ書24章18節)」という喩えによって語られるものである。人はそのみわざがもたらす「変化」におびえ、うろたえ、我を失うのである。この物語で、目が見えなかった人の「変化」とは、端的には何を指すのか。これは単に、見えなかった者が見えるようになった、という身体的な変化だけを示唆しているのではないだろう。「目が見えるようになる」とは、何を指し示しているのか。執拗に非難するファリサイ派の人々に対して、主イエスは辛辣に語っている。40節以下「イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、『我々も見えないということか』と言った。イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている』」。この主のみ言葉を、私たちはどう聞くのか、どう読むのか。
「見えない」ならば、「罪はない」とはどういうことか。私たちは「見える」ことが「あたりまえ、正常、当然」と考えている節がある。それは「見えない」ことへの一方的な思い込みや価値判断とつながっているのではないか。「見える」ことで、「見えない」ことが、まったく「見えない(わからない)」のである。「見える、見えない」という問題は、実は身体の機能についての事柄ではなくて、生きること全体に関わる事柄なのだと言えるだろう。誰かの嘆きや悲しみ、つらさや不甲斐なさ、失望そういった悲嘆を、ほんとうに私たちは自分のこととして「見る(わかる)」ことができるのか、逆にまた、自分の抱える悲嘆を、誰が「見て(わかって)」くれるのか。しかし人はしばしば口にする、「見える」「分かっている」「世間では通用しない」、そのようにして、私たちは自分の力に固執し、神の恵みのみ手を振り払ってしまうことになる。ほんとうに見て、知っているのは、神のみではないのか。
「見える」ことについて、この癒された人は大胆にその本質を語っていることに驚かされる。この癒された人は無理解で心無い人々によって無理やりに、強いられて、そういう公衆の面前に立たされた時、こう語っているのである。25節「目の見えなかったわたしが、今は見える」。彼の変化、癒し、こころがまさにこのひと言に込められている。今は、何が見えるということか、主イエスのことは、よく分からない(見えない)。でもあのお方が、他ならぬこの私に目を留め、このわたしと目と目で出会って下さり、わたしを見えるようにして下さった。ほんとうに見て、真実に見てくださるのが誰であるか、それを知ることこそが、「変化」即ち「見える」ことなのであると。
最近、身近にふれあう人々の幾人かが、白内障の手術を受けられた。「見え過ぎて困るくらい、よく見えるようになりました」と口々に感想を口にされるので、「私も受けた方が」、と思うことしきりである。読書や手紙の書写が億劫になり、階段の昇降にも不安を覚えることがある。まだ「見えるから」、と自分に言い訳をして、誤魔化し、先延ばしているところがある。41節「イエスは言われた。『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』。」このみ言葉が、自分に向けて響いてくる。「心のかたくなさ」こそ罪の典型的なかたちであろう、それは、ほんの日常の一コマの中にも表されている。
好物になった理由は、よく分からない。しかしその苦さという不可解な味を舌に思い起こし、またしばらくすると食べたくなる、というのは、生きることの不思議さの一コマかもしれない。するとゴーヤーの特有の苦さは、人に「かたくなさ」を教え、その先に何があるかを指示する「道標」なのかもしれない。人生には見えないことがたくさんあるし、見えない中に、与えられるまことの目によって、導かれるものなのだろう。