説教『我らを背負っておられる神』(イザヤ46:1~4)

2015年 9月20日     敬老の日礼拝・説教要約
説教『我らを背負っておられる神』(イザヤ46:1~4)

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◎ 今日は、明日の敬老の日を前にして、ご高齢の皆さんのご長寿を祝い、ご健康とご平安、一層のご長寿を祈る礼拝を捧げたいと思います。80歳以上の皆さんに御案内をしましたが、今日の礼拝に出席できない方も多くおられます。今日来てくださった方はもちろん、その方々のことも覚えながら、礼拝を捧げたいと思います。さて、ご高齢の皆さんにとっても、その年代に至っていない者にとっても、人生の最後の段階である高齢期をどう過ごすのかは大きな課題です。この高齢期の課題は、これまでの人生を振り返り、自分の人生の意味をまとめ、総括することと言えます。聖路加病院の日野原重明先生は、75歳以上の自立して生きる人達の会「新老人の会」を結成されましたが、そのモットーは「愛し愛されること」「新しく始めること」「忍耐すること」の3つです。高齢期になっても新しく始めることは大事なことです。しかし、他方、人生の意味を考えることも大事なことです。

◎ では、人生を振り返った時、何が見えてくるのか。ご高齢の方々が共通して思うことは、自分がこれまで多くの人達や多くのものに支えられてきたなと言うことではないでしょうか。最近、読んだ本に芸術家の篠田桃紅著『103歳になってわかったこと』があります。1913年生まれで103歳になる篠田さんは墨で表現する芸術家ですが、彼女は本の中で「歳を取るにつれて自由の範囲は無限に広がっています」「歳をとると言うことはクリエイトするということです。毎日を創造的に生きて行かねばなりません。老境に入って道なき道を手探りで進んでいると言う感じです」と、実に前向き・積極的・創造的に生きておられます。他方、「運命には抗えない。身の程をわきまえ、自然に対して謙虚でなければなりません」「私は、何回か生死を分けることがありました。その都度、私は人に救われ、生かしていただきました。こうして私が長生きしているのは、時宜にかなって救ってくれた人に巡り合ったからです」「人生は長く平たんではありません。山あり谷ありです。その中でやっと、つかの間、安心できる小さな場所を見つけた。そのことに感謝し、神仏の恵みがあるようにと祈る心はいつの時代も変わりません」と書いておられ、人生の中で助けていただいた人々、見えない神仏の恵みにも感謝しておられます。

◎ それでは、私達が拠って立っている聖書は、私達人間、及び、人生をどう見ているのでしょうか。その手掛かりを与えてくれる聖句はたくさんありますが、今日は、イザヤ書46章1~4節の言葉を取り上げ、人間とは何か、聖書の神様とはいかなる方かを見て行きましょう。この46章は第二イザヤと呼ばれる預言者が書いたと言われますが、その時代は、紀元前6世紀、バビロニアによって国を滅ぼされたユダヤの民が強制連行され、約50年間、都バビロンに奴隷状態として捕らえられていたバビロン捕囚から間もなく解放されるという頃です。今、バビロニアの北にペルシャと言う国が興り、バビロニアを滅ぼそうとして迫っています。その光景が46:1~2節に描かれています。そこではベルとかネボと呼ばれる偶像の神々の像が、獣や家畜に背負われて逃げようとしますが、その神の像が重いために獣も家畜も疲れ果て、倒れ伏し、バビロニアの人々も捕えられていきます。それまで、救いを求めていた神々の像が今は重荷となり、かえって人々を苦しめているという実に皮肉な姿・光景です。

◎そのような姿を描きながら、第二イザヤは、では、イスラエルの民がこれまで信じてきた神、そして、今、信じている神はいかなる方かを語ります。「あなた達は生まれた時から背負われ、胎を出た時から担われてきた」つまり、聖書の神は、人に担われる神ではなく、人を担う神、この世の一人一人を生まれた時から担っている神であると言うのです。続けてこう語ります。「同じように、私はあなたたちを老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう。私はあなたを造った。私が担い、背負い、救い出す」と。あなたをこの世に誕生させたのは私だ。だから、最後まで責任をもって担い、背負い、救い出すと力強く宣言されるのが、聖書の神だというのです。

◎聖書の神様は、愛と憐れみの神です。その神の怒りと裁きは愛の裏返しです。しかも、口先だけでそうなのではなく、自分の方から私達の所に来て、罪深い私達を担い、背負い、救い出す神です。それは例えば、申命記にも「荒野においても、あなたがたはこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神・主は、父が子を背負うようにあなた方を背負って下さった」とあるように、父が子を背負うように私達を我が子として背負う神なのです。それは、言い換えれば、常に主体は人間ではなく神だと言うことです。人間は神の被造物です。神様がこの世界とそこに生きる生命と人間を創造され、支配しておられる。聖書においては、人間ではなく、神が主体・主語なのです。人間が神を担うのではなく、神が人間を担うのです。神様が人間を創造し、最後まで担われるのです。

◎私達は、その力強い約束の言葉がイエス・キリストにおいて実現したことを信じます。主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私の元に来なさい」と言われました。主が私達を担い、救い出してくださったのです。「足跡」と言う詩にあるように、主は私達が最も辛く・苦しく・悲しい時に私達を背負って歩んでくださいました。主は私達を最後まで背負ってくださいます。主に担われ、最後まで平安の内に生きて行きたいと思うのです。