説教『命の始まりの序曲』(ルカ23:50~56)

2016年10月23日          主日礼拝・説教要約

◎10月も下旬となり、日に日に秋らしくなってきました。昨日のバザーには多くの方が来てくださり、祝福され た良きバザーとなりました。皆が一つになって働きました。皆さまのお祈りとご協力に心より感謝いたします。

◎今日は、久しぶりにルカ福音書に戻ってそのみ言葉から神様の御声・メッセージを聴いて参りたいと思います。今日取り上げるのは、ルカ23:50~56の「主のご遺体が葬られた」場面です。イエス様は十字架上で「父よ、 わが霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれて息を引き取られましたが、その後、そのご遺体をヨセフという議員が引き取って、丁寧に墓に葬ったことが記されています。十字架の場面と復活の場面の間にある地味で静かな場面ですが、使徒信条において「死んで葬られ、陰府に下り」と告白されているように、大変、重要な場面です。今日は、ここに記されている記事に込められたメッセージと記されていないメッセージをお話したいと思います。

◎今日の記事は大きく二つに分られます。23:50~53のヨセフが遺体を引き取り、葬った場面と、23:54~56の女性達が香料と香油の準備をした場面です。前半ではヨセフが登場します。彼は最高法院の議員でしたが、他の議員が主イエスを十字架につけようと画策していたのに対して、ヨセフは同僚の決議や行動には同意しなかったと言います。ヨセフは真実を求めた勇気ある人でした。それは彼が常に神を信じ、神に従おうとしたからです。その意味で彼は「善良で正しい人」でした。彼は主イエスを尊敬し、主イエスこそ救い主と信じていたのではないでしょうか。だからこそ、総督の所に行き、主のご遺体を渡してくれるように願い出て引き取ったのでした。

◎なぜ、ヨセフは主の遺体を葬ったのか。それは彼には主に対する尊敬と敬意、信仰があったからです。彼は主の教えと癒しの奇跡によって、この方こそ神の国をもたらす方だとの確信を得ました。さらに、十字架上での主の「父よ、彼らをお赦しください」という祈りを聞き、また、「わが霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取った姿を見て、この方こそメシア・救い主との信仰を得たのではないでしょうか。ルカ福音書の第2章には、神殿で献げられた幼子イエスを、シメオンとアンナという救いを待ち望んでいた高齢の信仰者が救いをもたらす方として迎える場面がありますが、福音記者ルカは主の生涯の最後にヨセフを登場させることで、イエスこそ救い主との信仰を言い表していると言えないでしょうか。ヨセフは主イエスの中に神の国の到来を見た人だと言えます。

◎今日の記事の後半には女性達が登場します。彼女達はガリラヤから主に従ってきた人達です。彼女達はヨセフの後に従い、墓と主の遺体が納められた様を見届けると、家に帰り、香料と香油の準備をしたと言います。その日は金曜日、ユダヤでは日没によって日が改まり、翌日は安息日です。安息日は何もできないために彼女らは安息日が明けたら主を丁寧に葬るために香料と香油を準備したのです。ここに彼女らの主イエスに対する敬意と思慕、信仰を見ることができます。そして、これが後に主の復活の証人となることにつながることを思うと、そこには神様の御計画があったと思わざるを得ません。その意味でヨセフも女性達も復活の証人となる準備をした人達と言えますし、この葬りの記事は復活という新たな命の始まりの序曲と言えます。そう考えるとキリスト者の葬りは新たな命への準備の時であり、墓は復活という新たな命の完成を待つ所・備えの場所と言えないでしょうか。

◎以上が今日の記事が教えているメッセージですが、これからこの記事に書かれていないメッセージをお話したいと思います。この葬りの記事は4つの福音書に描かれています。それはそこに初代教会の人達の信仰が込められているからです。後に、信仰を言い表した使徒信条に「死んで葬られ、陰府にくだり」が加えられました。この言葉に込められた信仰とは何でしょうか。まず「死んで葬られ」。この言葉の中には、神の子・主イエスは人として本当に死んだのだということ、主は私たちと同じように人として死んだことが明示されています。そして、主の死と葬りの中に「主は私達と死を共にするために死なれたのだ」という信仰を得ていきます。人々は、この主の死によって「主は死においても私達と共におられる」こと、「主と死を共にすることで主の復活の命・永遠の命にあずかれる」ことの確信を得、死への不安と恐れは希望へと変えられていったのです。「死にて葬られ」の中には、主と死を共にすることによる死への安心と平安、また、新たな命への希望が込められているのです。

◎次に「陰府にくだり」。陰府(よみ)とは死者の赴くところ、闇と暗黒、滅びの世界です。なぜ、主は陰府に行かれたのか。それは「獄に捕らわれている霊たちの所に行き、(救い・福音を)宣べ伝えるため」(Ⅰペトロ3:19)です。主は死後、苦しむ人々を救うために陰府にくだされたのです。それほどまでに主の憐れみは深いのです。そのようにして「天上のもの、地上のもの、地下のもの」が主の御名にひざまずき「イエス・キリストは主である」と宣べて神を讃えるのです(フィリピ3:6以下)。この陰府の力は地上においても噴出し、人々を苦しめます。しかし、主はその力に勝利されました。主はすべての者に命を与える命の主となってくださったのです。