2017年12月10日 アドベント(2)・主日礼拝・説教要約
説教『貧しい人への愛と憐れみの奇跡』(マルコ8:1~21)
◎待降節の第二主日を迎えました。クリスマスまで2週間。夜になると教会のイルミネーションが清らかに輝いています。クリスマスイブのチラシも美しいものができました。少しずつクリスマスを迎える準備が整えられています。私たちも一人一人イエス様を心から救い主として迎えられるよう備えて参りましょう。
◎今日も聖書のみ言葉から神様の命を受けて参ります。今日の箇所、マルコ8:1~21は3つの部分からなり、それぞれ小見出しが付けられています。今日はこの3つの部分からそれぞれメッセージを聴いて参ります。
◎最初の箇所、8:1~10は「4000人に食べ物を与える」という記事です。以前取り上げた6:30~44の「5000人に食べ物を与える」話とどう違うのでしょうか。同じ出来事を2つに分けて書いたとする人もいますが、別々の出来事と見て考えると、6章がガリラヤの地でユダヤ人を対象に食べ物を与えた出来事であるのに対し、8章の記事は異邦の地で異邦人を対象に食べ物を与えた話と言えます。7つのパンと7つの籠とありますが、「7」は全世界を表します。つまり、この「4000人に食べ物を与えた」話は主イエスが全世界のすべての人の救い主・命のパンであることを示しています。特に、この記事で大事な言葉は「群衆がかわいそうだ」と主が言われた「かわいそう」という言葉です。「かわいそう」は内臓を表す言葉に由来し、「はらわたが痛むほどかわいそう」という意味です。この「かわいそう」にはイエス様の憐れみの深さが表されていますし、「空腹のまま家に帰らせると途中で疲れ切ってしまうだろう」と心配された姿には、イエス様の愛と思いやりの深さが示されています。この深き愛と憐れみが給食の奇跡を生み出したのです。
◎この記事には主イエスとはどういう方が示されています。主イエスは愛と憐れみの深い方であり、また、弟子達が差し出したわずかなパンを用いて4000人を満腹にしたばかりか、7つの籠に余るほどのパンを与えてくださった方、つまり、全ての人にあり余るほどの恵みを与えてくださる救い主であることが分かります。私達はその憐れみ深い主イエスを救い主として仰ぐものです。であれば、私たちもまた憐れみ深い者になりたいと思います。今、国内にも世界中にも飢えている人達が大勢います。私達は困窮の中にいる人達を思い、その人達のことを覚えて祈り、その人達のために最善のことをして参りたいと思うのです。
◎次の箇所、8:11~13は「人々はしるしを欲しがる」とあります。8:10によると主は船に乗ってダルマルタ地方に行かれます。この地方は不明ということですが、ファリサイ派が来ていたことからガリラヤ湖西岸ガリラヤ地方と考えられます。早速、主の元にファリサイ派の人々が主を試そうとして天からのしるしを求めて議論したと言います。彼らは主に「お前が神から遣わされた救い主であれば、そのしるし・証拠をみせろ」としるしとしての奇跡を行うように求めたのです。それに対して主は深く嘆かれたといいます。「どうして、今の時代の者達はしるしを欲しがるんだろう」と。この記事は何を伝えているのか。それは、主に証拠としての奇跡を求める人間の傲慢さです。ここに「試す」という言葉がありますが、試すとは、テストをするということです。神の子・主をテストしようとする人間の傲慢が示されています。マタイ福音書4章のサタンの誘惑「神殿にお屋根から飛び降りてみろ」に対し、主は「神である主を試してはならない」と答えています。ファリサイ派に代表される人間の傲慢、人が神を試す傲慢さを伝えています。
◎ここに込められたメッセージは何か。それは、主イエス・神様は人間がテストすることによってご自分を現す方ではないということです。森有正が言うように神様は試そうとする人には自らを表しません。本当に心の底から呻きながら神を求める人、本当にへりくだった人だけに自らを現すのです。では、主はどのような方なのか。それは、マタイ16:4にある「ヨナのしるし」を示された方と言えます。海に沈められた後、巨大な魚が飲み込まれ、三日目に陸に吐き出された預言者ヨナ。ヨナのしるしとは十字架と復活の出来事を指します。主イエスとは十字架と復活の出来事により罪と死に勝利された救い主であるのです。
◎最後の箇所、8:14~21は「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」とあります。主は先程の出来事の後、弟子達に「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と教えます。ファリサイ派のパン種とは神の子をテストする「傲慢」を指します。ルカ21:1には「偽善」とあります。ローマの手紙9~10章には、人間の行いによって義を得ようとすること、神の義ではなく自分の義を求めようとする人間の罪が示されています。神ではなく人間・自己を第一することこそ悪しきパン種と言えます。ヘロデのパン種もまた人間の権力と富を求める世俗的な生き方を指します。この二つの誘惑、宗教的なエゴイズムと世俗的なエゴイズムに注意せよと主は警告するのです。主は弟子達にまだ悟らないのかと問いかけます。主こそ、真に神に従い、神の御心を第一とされる神からの真の命のパンである。そのような方なのです。