「いちばん小さい」マタイによる福音書2章1~12節

年の瀬を迎えた。歳末ともなるとしきりにこの一年の回顧がなされるのが、この世の常である。この国のある補聴器メーカーが、毎年この時期に今年の「こころに残った音」アンケート調査結果を発表している。「世の中には様々な 『音』 が存在しています。そして『音』と『記憶に残る出来事』が密接に結びついていることは少なくありません」と趣旨を付している。皆さんなら、今年どんな音が心に残っているだろうか。

調査で最も多く回答されたのは、「大リーグで史上初の“50-50”達成時の打球音と大歓声」だったという。テレビで何度となくこの時の様子が映し出されていたので刷り込み効果か、確かに首肯ずかされる。次点は「大型台風や豪雨などの暴風雨の音」、短時間で記録的な降水量を観測したことで、広範囲にわたる浸水被害や土砂崩れが発生し、多くの人々が避難を余儀なくされた。それもこの国だけでなく世界規模で発生している。気象学者は「地球温暖化の時代は終わり、地球が沸騰する時代がきた」と警告を発している。次いで「日本各地で開催された花火大会やお祭りの音」、コロナ禍が過去のこととなりつつあるとの意識が、これには表出されているだろう。祭りの起源は、疫病退散の祈願から始まったものが多い。それが感染の拡大によって開催が見合わされたのは皮肉であるが、再開は喜ばしいものであろう、但しウイルスの脅威は、常に繰り返される。

さて、こうしてみると、今年の記憶や印象に残った「音」とは、やはり大きな音、大きな声、歓声、嬌声という要素が主であることが理解されよう。人は「大きい」ことに、耳目を奪われる傾向がある。か細い、弱々しい声、自信のない、はっきりしない音に、もどかしい思いをしたり、うさん臭く感じたり、どうでも良いと軽く受け取ったりもするということだろう。

詩人、谷川俊太郎氏の良く知られた作品(詩集)に『みみをすます』(装丁・イラスト、柳生弦一郎1982年刊)がある。比較的長めの詩なので、少しだけ紹介したい、「みみをすます/きのうのあまだれに/みみをすます/みみをすます/いつから/つづいてきたともしれぬ/ひとびとの/あしおとに/みみをすます/めをつむり/みみをすます」。全編かな書きで記される作品である。詩人にとって、耳をすませて聞くべき音は、自分のごく身近な、生活の周辺にある音である。それは雨のしとしと降る自然の音であり、人々の行き交う音、足音である。つまり日常のあたりまえの事柄が発する音の中にこそ、「生きる」ことが具体的に証されている、というのである。

さらに今、私が耳にしている、現在聴こえる音ばかりではない。「みみをすます/しんでゆくきょうりゅうの/うめきに/みみをすます/かみなりにうたれ/もえあがるきの/さけびに/なりやまぬ/しおざいに/おともなく/ふりつもる/プランクトンに/みみをすます」。自分が実際に耳にしたことのない、大昔の、失われた歴史の中に発せられた音、人間が誕生していない遥か古代の音をも、人は想像の翼を拡げて耳をそばだてれば聞くことができる。そういう聴こえない音をも聞こうとする心を持っているかと問いかけているようだ。このように音は雨だれから、さまざまなくつの足音、生き物のなき声、人間が発する音、社会の音へと拡がり、そして聞く耳は時代をさかのぼって行く。

そして「なにがだれを/よんでいるのか/じぶんの/うぶごえに/みみをすます」自分の誕生する前、あるいは誕生した時、何者かが呼びかける声、そしてまだ言葉にならない自分自身の声の音を聴くことができる、と詠うのである。因みに「耳をすます」という表現は、日本語の独特の言い回しらしい。

今日の聖書個所は、マタイによる福音書のクリスマス物語である。おなじみ「東からの博士たち」、新共同訳では「占星術の学者たち」が登場する。彼らはエルサレム、ヘロデ王の宮殿にやって来て、こう尋ねたという「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか,わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」。東方の知者たちは、瞬く星の光の沈黙の声を聞くことのできる耳を持っていたようだ、即ち「みみをすます」人たちだった。これを聞いてヘロデ王は「不安」を抱いた、という。エルサレムの人々も皆、同様であった。微かで密かな自分たちの耳には聞こえない音、小さな声を彼らは聞いているのだから。その音は何を告げているのだろう。

ヘロデは非常に慎重な性格の持ち主で、策略に長けた人物だった。ローマ帝国に巧みに取り入り、全ユダヤの王としての地位を盤石なものとしていた。但し、イドマヤ出身なので、純粋なユダヤ人ではなかったから、そのあたりにも、周到に気を配った。ユダヤ教への最大限の敬意の表明として、40年もの年月をかけて、エルサレム神殿を改築したのである。地中海から高価な大理石を運ばせ、神殿の壁をすべてこれで覆い、装ったというのである。これでエルサレム神殿は、近隣の諸外国にも評判の場所となり、数多の異教徒も参拝する名所となった。インバウンドの聖地ともなったエルサレム、ユダヤ人とて悪い気はしなかったであろう。そして民を過剰に刺激しないよう、ユダヤの絶大の権力者でありながら、神殿に対しては、不敬のそしりを受けないように身を慎んでいた。その絶対の権力者が、今「不安」を感じている。

どんなに慎重に事を運んでも、それ程周到に手を打って対策を施しても、人生に不安はつきまとう。ある放送局の調査では、現代人の不安の理由がこう分析されていた「物価高騰、SNSやAIの世の中に不安を感じてしまう」、「ニュース、新聞、ネットなどのメディアで見聞きした情報により不安になる」、「異常気象による山火事・干ばつ・水害、紛争・戦争・テロ、プラスチックによる環境汚染、食べられるものがあと数年でなくなるのではと不安が募る」、「ウクライナ、ガザなど人間どうしの殺し合いが続き、良識ある世界でなくなっていくのはと思うと、何とも恐ろしい」。実際、多くの方が日々のニュースや出来事に不安を感じている。世の中に、それは大量のマスメディアによって洪水のように奔流となって押し寄せる情報、大きな音、大きな声に、不安が増幅されて行く。人間は大きな声、大きな音によって心が捕らえられるが、安心どころか却って不安が増し加わるらしい。

そこで「王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」』」。さしもの大王もメシアの出生について、何も知らなかった。王の無知は、民の無知でもあったろう、そこで専門家に調べさせ、彼らは聖書から探り出した、という次第である。つまり「メシア情報」は、世の人の耳目を集め、盛んに話題されるような類の、魅力的な情報であったのではない、非常にマイナーな、あまり目立たない微かな情報ということだろう。

「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となる」、ところがこの章句は、旧約ミカ書の原文とは異なる、「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」。マタイは「小さいものではない」と言い換えて、婉曲に意図的に誤訳する。しかしその本来の言葉は「とても小さい」である。メシア、救い主は、「とても小さいところに生まれる」。この「とても小さい」は、町の面積や人口の少なさばかりでなく、噂にもならない、問題にもならない、無視される場所というような意味を含んでいる。真白く黄金に輝く神殿の聳え立つエルサレムに比べたら、ベツレヘムは、まして主イエスの故郷ナザレは、「とても小さい」場所である。しかし、この小さな場所に、み言葉は響き告げられるのである。

「とても小さい」、とはどのような言葉か、声高の、怒鳴りつけるような、叫ぶような声ではないだろう。人を押さえつけて、有無を言わさず従わせるような蛮声ではないだろう。野を渡る風に紛れて、ささやくような声かもしれない。そのように伝えられる神の言葉に、あなたは耳を澄ますことができるか。「彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和」(ミカ書5章3節)。救い主は、安らかに住み、平和そのものであるという。

「みみをすます」をもう少しだけ味わいたい。「おじいさんの/とおいせき/おばあさんの/はたのひびき/たけやぶをわたるかぜと/そのかぜにのる/ああめんと/なんまいだ/しょうがっこうの/あしぶみおるがん/うみをわたってきた/みしらぬくにの/ふるいうたに/みみをすます」。これは天使の告げる言葉、賛美の歌ではないのか

とても小さな町、ベツレヘムに語られる神のことばは、星の光となって、東からの博士たちをみ子のもとに導いてゆく。「たけやぶをわたるかぜと/そのかぜにのる/ああめんと/なんまいだ」。星に導かれた博士たちは「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」。み言葉によって、飼い葉桶の神のみ子に出会った者は、もはやヘロデの所に戻る必要はない、別の道を歩み始めるのである。私たちも、今年とは別の道を通って、新しい年の道を歩み始めるのである。