「毎日難儀なことばかり/泣き疲れ眠るだけ/そんなじゃダメだと怒ったり/これでもいいかと思ったり/風が吹けば消えそうで/おちおち夢も見られない」、この10月からの朝ドラのオープニング曲「笑ったり、転んだり」の一節である。デュオグループ、ランバート・ランバートのメンバーのひとり、佐藤良成氏の作詞・作曲になる歌である。けだるそうでやるせない雰囲気のレトロな曲調だが、現代人の落ち着かない心情を巧みに言い表している。「風が吹けば消えそうで」という一節、秋が深まり、日暮れが速まり涼やかな風が吹くこの季節には、身にしみて感じられる。考える暇もなく忙しく日々を過ごし、自分が、ある日ふっと消えてなくなってしまうような実体のなさ、まるで幽霊のような、そうした感覚が、現代の人間の生きる実態なのだろうか。
秋分を迎えて、徐々に夜の長くなる季節は、火影の恋しい時でもある。繰り返される物価高騰や緊迫で内向きの世界情勢等、この世の相に暗闇の深さを感じさせられるが、ただただ暗い暗いと嘆いてみても、自然に明るさがもたらされるものでもない。「一灯を掲げて暗夜を行く。暗夜を憂うことなかれ。ただ一灯を頼め」、江戸時代の儒学者、佐藤一斎の『言志四録』の中の言葉がある。まず、灯を掲げるという勇気に打たれる。「自分はこうなのだ!」という灯を掲げる。しかも道は真っ暗闇…。怖いし、先も読めない。手探り状態。しかし、その灯を信じて前進するのだと励まされる。ついつい暗夜を憂いて嘆くものだが、しかし「憂うるなかれ」と言う。どこまでも己の掲げた火を頼めと、手に握る熱情を感じる。一度限りの人生を、本当に意味ある人生として生きたい、どこかしらに、これが私の人生と呼ぶにふさわしい生き方をしたい、教会に来られる方は皆、そのような思いを抱かれていることであろう。人生に自分のともし火を灯す、私の灯りを掲げる、というのは、生きる証、確かな人生の証明ということでもある。その灯りは小さなともし火でよい。大きな松明や焚き火でなくてもよい。人生にそんな大きな火を望んだら、それこそ大火事で、自分が焼け焦げて死んでしまう。だから小さなともし火でよい。しかし問題は、どうしたらそのような自分の灯りを灯すことができるのか、何をしたら、そのような自分だけの灯りを持つことができるのか、ということである。
マタイによる福音書25章から学びたい。表題に「十人のおとめのたとえ」と記されている。福音書はナザレのイエスの言葉と行為とを記した書物であるが、そこには「譬話」といわれる小さなお話がたくさん載せられている。主イエスは譬話の大家であったようで、ごく身近な民衆の生活の話題を取り上げ、神や信仰について人々に教えた。ここでは「天の国は次のようにたとえらえる」とある。もっとも天の国とは、神の国、神の支配、神のはたらきという意味で、死んだ後に行くところ、というだけでなく。今、私たちの世界、この世と神の国は、どこかで繋がっている。神のはたらきは、遠いところにあるのではなくて、今この世界に、今、あなたの生きているところにも及んでいる、というのが、主イエスのメッセージである。そんなものどこにあるのかと、見えはしないではないか、と言われるかもしれない。しかし主イエスの語られた言葉を、心に宿して生きるなら、おぼろげにではあるが、神の国が示されて来るから不思議である。
さて、譬話によると、天の国、つまり神のはたらきは、花婿を迎える乙女のようなものだ、とある。聖書の時代、今日と同じく、結婚式と言うものは人生の華であるから、実に盛大に祝われた。一週間ぶっ続けて宴会が繰り広げられる、という具合、まず花婿が花嫁の家に出向いて、自分の家に連れてくることから始まる。すると花嫁の友人達、うら若い乙女達が、こぞってこれを出迎える、これが慣わしであった。誰か他の人を祝福すれば、その祝福は自らに帰って来る、乙女達も将来、良い縁に結ばれる、と信じられた。殊に婚宴は夕べに行なわれるのが常だったので、暗い中、手燭を灯して出迎えるのが、何よりの祝いのための心ばえであったことは、お分かりだろう。明かりが何よりのおもてなし、灯りを点すのは決して安いことではなかった。花婿はまず浮世の義理で、町の世話役や顔役、長老の所に挨拶に回り、それをすませて花嫁の家に行き迎えるのである。ところがそこでも今まで蝶よ、花よと育ててきた娘を嫁がせるわけであるから、ついつい別れに涙涙の時間がかかる。「おとうさま、おかあさま、永のお世話になりました」。どうしても花婿の到着が遅れるということは、しばしばであったようである。
これは譬話であるから、「花婿の来る時」とは、「神が私の人生に働かれる時」の隠喩である。どうも人間の思い通りに神は働いてくれない。まだかまだか、遅い遅いと私たちは自分勝手に思うのである。しかし、神の来られる時、私に働いてくださる時と言うものが、必ず訪れる。私たちには、その時がはっきり分からないから、やきもきするし、信じられないというし、この譬話のように、眠り込んでしまったりする。それでいいのだ。人間いつも目を覚まして、神経を尖らせて、その時を待つ、ことなどできない。寝る子は育つ、うとうとまどろんでしまうことも有る。心弱くなって、眠り込んでしまうことが有る。眠りは神の与える大きな贈り物、という言葉がある。眠ることは大きな幸いなのである。
ところが、神は突然に、私の人生に来られるのである。6節「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」。ここで乙女達は二つに分けられるのである。人間、まだかまだか、まだだまだだ、とまどろんでいるうちに、自分の命の火が消えそうになっているのである。「木を切るのに忙しくて、自分の斧を磨く暇がなかった」と言うことわざがある。人生忙しく働くままに、自分の命の手入れをしないうちに、自分の命の火が、消えそうになっている。人生、生きることに慣れてしまって、心が乾ききってしまって、何も感じなくなってしまう。そして初めて気づく。「一体私は何をしてきたんだ」。人間だれも皆そういう思いを持って生きているのである。
ところが、賢い乙女は、油の用意をしていた。予備の油を持っていた、というのである。人生の予備の油、このときのため、という自分のために蓄える油、そういうものがある。それは分けてください、と誰かに頼んでも、人生には借り物では間に合わない、自分が蓄えるしかない、自分でつかむしかない、そういうものが確かにあるのである。それでは、人生のための油とは何であろう。油は燃料、潤滑剤、化粧品、医薬、様々な用途に供せられる。間にあって背後にあって、なくてならぬ働きをする。
「何があるのかどこに行くのか/わからぬまま家を出て/帰る場所などとうに忘れた/
君とふたり歩くだけ/落ち込まないで諦めないで/君のとなり歩くから/今夜も散歩しましょうか」、先に紹介した歌の末尾である。誰か散歩相手が居れば、なぜ生きるのか分からなくても、落ち込まないで諦めないで、切羽詰まらず、歩けるだろう。「君のとなり」に、いつも共に歩んでくれる主がおられるのである。この主こそ、人生の油である。