謹賀新年、新しい年に、主の豊かな祝福と導きとを祈りたい。「凧、コマ、ビー玉」とくれば、かつての子どもの遊びの定番である。かつてお正月休みに兄弟や近所の友人と楽しんだ記憶を、懐かしく思い出される方も多かろう。「凧、コマ、ビー玉」というたわいもない遊び道具、おもちゃは、実はこの国だけのものではなく、世界中の子どもたち(大人も)の楽しみでもある。こんな文章を目にした。シリア難民キャンプに暮らす子どもたちの様子を伝える記事である。「日本の多くの大人世代にとっては懐かしい遊びが、キャンプの中では今でも健在です。先日、私がキャンプの中を歩いていた時、見つけた子どもたちの遊びは、コマとビー玉、そして凧揚げでした。コマはペットボトルの蓋を二つ合わせ、釘を中心に通して作ります。真っ直ぐ糸を引くための導線となるホースもセットになっていて、リサイクル工作として本当によくできています。実演をしてくれました。糸を引いてコマを飛ばす時だけは、ものすごく真剣な表情をしています。また、ビー玉遊びもやっとこの日、ルールがわかりました。モスクの脇で遊ぶこの兄弟は、何度も何度もゲームをしていました。何が起きているのか早すぎてよく分からない、というと、速度を落としてゆっくり、ゲームをしなおしてくれました(やさしい)。凧揚げは、キャンプだけではなく、他の地域でも大人気の遊びです。ヨルダンで完全にロックダウンとなった日には、アンマン市内でもたくさんの凧が空を泳ぐのが見えました。
先生たちも子どもたちの好みを把握しているので、メッセージ配信では、遊べるおもちゃを作る工作のビデオも時々送っていました。意外とこういった工作ビデオなどの教材を作る先生たちの方が真剣なようで、大人が楽しめるものは子どもにも楽しいに違いない、と確信するのでした」(松永晴子、国境なき子どもたち)
人間はどのようなところに生きていても、たとえ難民キャンプでも、「遊び」は必要不可欠のものであり、子どもももちろん「教材を作る(難民キャンプの)先生の方が真剣」と語られるように、人間には、遊びによって本来の自分を取り戻し、保持し、いのちを回復しているということであろう。何もおもちゃや道具がなくても、人は必ずどのようにか知恵を使って遊ぶのである。考えてみれば「遊び」ほど知恵の凝縮はないのではないか。これと対照的なのは、「暴力」である。
今日の聖書個所は、降誕後の東方の博士たちの来訪に続いて生じた出来事を記している。祝いのしるしの「黄金、乳香、没薬」の贈り物は高価であるが、生まれたばかりの幼児のために、余り相応しい品とは言えないだろう。当時、町中におもちゃ屋があろうはずはないから、仕方ないかもしれない。後に大工であったヨセフが、何か手作り玩具を作って与えたのかもしれない。但し幼児期の主イエスが、何をして遊んだのか、具体的には聖書に記されていないが、外典には「土をこねて雀を作った」と書かれている。今も子どもたちが好む「粘土遊び」である。子どもたちの遊びの粘土工作さながら、神は土の塵(粘土)を捏ねて最初の人アダムを創ったとあるので、「遊び」の元祖は神にまで遡ることになろう。神ご自身、遊び心を持たれている方ということであり、そこから天地万物の創造も、神の遊び心の表れとも言えるかもしれない。そうでなかったら、この世界の生命の多様性をどのように理解したら良いのか、また他にも福音書には主イエスの自身の発言として、「お葬式ごっこ、結婚式ごっこ」への言及があるから、さもありなん、近所の子ども同士でそんな遊びをしていたのかもしれない。
ところが降誕後、事態は風雲急を告げ、生まれたばかりの幼児に大きな危機が迫るのである。東方の博士たちが自分の国へと戻って行った直後、ヨセフは夢でヘロデの残虐な企てを示される。博士たちに騙されたことに腹を立てた王が、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。それでからくも危機を逃れた聖家族は、エジプトへと逃避することとなる。「ヘロデによる幼児虐殺」というショッキングな出来事を、聖書学では、そもそもの伝承が、出エジプトの故事に倣って記されていると分析する。この事件の歴史的信ぴょう性はともかくとして、ヘロデ大王の政策は、とにかく少しでも権力への危険要因があれば、ことごとく芽の内に摘み取る、という老獪なものであったから、あながち見当違いという訳ではないだろう。但し、大王の不安は、生まれたばかりの赤ん坊から来ているのである。小さな赤ん坊の誕生に、ヘロデは恐れおののいている。そして人間は恐れを解消するために、幼い子どもの生命までをも犠牲にする。
戦争や紛争等で、無辜の多くの生命が奪われる時に、その責任から最も遠いところに立っているのは、幼い子ども達である。そして、一たび国に紛争が起これば、真っ先に犠牲になるのは、これまた幼い子ども達である。古代から現代にいたるまで、この悲しむべき事実は連綿と変わりなく続いている。その根底にあるものは、ヘロデ王の不安であり、エルサレムに住む人々の不安、即ち、人間の抱える漠然とした「不安」である。「敵」とはいうものの、実のところそれはあやふやな敵意であって、先制しなければ自分が攻撃されるという恐れが、暴力を生み出し、それで幼い子どもや弱い者が犠牲になる。ここに人間の罪の、もっとも醜い面が現れている。だからそこはかとない「不安」に、どう立ち向かうかが、人間の最も大きな課題であるとも言えよう。「遊び」に熱中する子どもと、「殺戮と暴力」に血眼になる大人、ここに人間の根源的な問題が、すべて明らかにされている。
だからそこに生きている子どもたちの表情、態度、目の光をみれば、そこに何が起こっているか、そこがどのような世界であるか、すぐにそうと知れるのではないか。幼くして人殺しや盗みや暴力に追い立てられる過酷で非情な世界は、子どもに子どもであることを許さないところである。すぐに大人になることを強制する。そこでは彼らの目は吊り上がり、絶えず辺りを伺い、抜け目なく光っている。子どもの小さな生命を踏みにじるのは、実にヘロデ王の不安であり、今も世界のあちらこちらで、それが顕わになっている。
神の使いは、夢でヨセフに告げる、14節「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」という。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった、という。この原文は、ホセア書11章1節の預言である、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」。神は「幼いイスラエル」を愛するのである。子どものイスラエル、遊びに夢中になる子どもと共に、同じところに歩んで、共に遊ぶ方なのである。そしてその子どもを我が子として、エジプトから呼び出される方、引き出される方なのである。エジプトとはイスラエルの民が奴隷であった場所、王ファラオの虐げに苦しんだ地である。神はそれをそのままに放って置かれ、人が苦しむままにはされなかった。
難民キャンプで、かつて私たちが小さい時に遊び興じた「コマ、ビー玉、凧あげ」が、悲惨な中に置かれた子どもたちによって、同じように遊び興じられていることに、深い慰めを覚える。そこではいまだに子どもが子どもとして保たれているのである。そしてその子どもを子どものままに支えようとする大人たちの祈りと努力がある。
まだこの国では「民間の国際協力」という考え方が浅かった時代に、カンボジア国境の難民キャンプに赴いて単身ボランティア活動を行った深津高子氏が「平和は子どもからはじまる」と題された講演(2009年)の中で、こう語っている。「難民キャンプはタイ領内ですから、キャンプは有刺鉄線で囲まれ一歩も外に出られない中で生活をしていました。ここでも、どんどん子ども達は生まれてきました。大人が不安な毎日過ごしている中で、子どもはほったらかしにされていました。私が『どうしたら難民が出ない世界が出来るのだろう、援助ができるのだろう』と悩んでいた時に、キャンプ内の『希望の家』と言う保育園に出会いました。『難民が出ない手伝いをしたいのに、難民を出している、そんな気持ちがする。どうしたら難民が出なくてもいい援助ができるのでしょう』と訴えました。『平和は子どもから始まるのよ』と、園長先生(佐藤ゆきえ)は言いました。
その時の不思議な感覚を今でも覚えています。『いったいこの人は何を言っているんだろう。あんな小さい子どもたち。泣いたり、怒ったり、走りまわったり、どうしてあの子たちが平和をつくるの』と、その時は園長先生の言った意味が全く分からなかったわけです。希望の家では、全く笑わなかった子どもたちを一生懸命楽しませようと、手遊びや人形劇のエンターテイメントをしていました。ポルポト時代は歌ってもいけない、踊ってもいけない、自己表現は一切禁止されていました。子どもたちは希望の家にきて初めて、故郷のわらべ唄、祖国の文化を聞き、踊ることができたのです。
この子どもたちは、難民キャンプのお医者さんが足のケガを手当てしているのと同じことを人形にしました。『優しくされた子どもたちは、かならず人形に優しくする」見立て遊びですが、子ども達はちゃんと見ていて、人形に同じようにやっているのです』」。
難民キャンプの過酷な生活の中で、その悲惨に魂がまったく飲み込まれるのではなく、そこから引き出されて、連れ出されて、「遊びの中で」笑顔が回復して行く子どもたちがいる。地雷を踏んで足に大きなけがをした子どもが、やさしく手当されて、自分もまた大切にしている人形の足に手当をしている、そういう姿の中に、神の御手が伸ばされていることを知る。それは悲惨の中に打ち捨てられるのではなく、引き出される力である。ヘロデの暴力から引き出されて難民として生きた聖家族、マリア、ヨセフ、幼子の姿がここにある。その引き出す力、呼び出すみ言葉によって、新しい年の歩みを始めたい