「涙をことごとくぬぐわれる」ヨハネの黙示録7章9~17節

10月の初旬は、別名「ノーベル賞週間」と言われように、連日、かの有名な賞の受賞者が発表され、その名が世界のマスコミに大きく報道される。「聖書に登場する男性名シメオンはサイモンやシモンの名の由来で原義は『耳を傾ける』。海外でよく関係を聞かれるそうだ。『制御性T細胞』の発見で日本から6人目のノーベル生理学・医学賞受賞が決まった坂口志文(さかぐち・しもん)教授である。哲学を学んだ父親が「学問を志す」期待を込め聖書から名付けたらしい」(10月8日付「余録」)。

旧約のヤコブの腰から出た子孫のひとりシメオン、この息子についてはこう記される「シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器、彼らは怒りに任せて人を殺し」(創世記49章5節)。言うことを聞くよりも先に手が出てしまうという激情型の人間として描かれるが、その名の意味が「耳を傾ける」つまり「傾聴の人」だと言うのである。「名は体を表す」というが、真逆な気質を持っているとはどういうことか。「傾聴」がどれ程大変で、重いものであるかと、言外に仄めかしているのであろうか。

「聞く」ことについて、こういう文章を読んだ。「知人の助産師が『参った』というふうに話し始めた。相談に来た女性が、産後の心身共にきつい時期を人工知能(AI)に心情を打ち明け、AIから助言を得て乗り越えたという。産後太りに悩む別の女性は冷蔵庫内の食材を一つ一つAIに告げ、メニューを提示してもらい体重を落としたそうだ。AI分野の開発は日進月歩。AIを制御に使うヒト型ロボットの開発は、米国や中国で加速している。細る働き手を補ってくれるが、人間の役割を奪われもするのが怖いところでもある。」(9月28日付「明窓」)。

AIが人間の代わりに話し相手、相談相手になってくれる時代に、私たちは生きている。「産後」というもっと微妙な時期に、支え手、援け手になってくれる、もう人間はいらないのか、という思いにもさせられる。ところがこう続く、「とはいえ彼女たちもAIだけでは事足りず、生身の人間の下へも足を運んでいる。AIと人間とを組み合わせたハイブリッド型の導きで人生を進めるのが、今どきのベストな手法なのだろう」。

今日の聖書個所は、ヨハネの黙示録である。新約最後の書物であり、「黙示文学」というジャンルの文書である。旧約にもこのような表現や文体を用いて記された書物が散見される。エゼキエル書、ヨエル書、ダニエル書等である。天使や野獣等、非常に象徴的な事物を登場させ、幻想的、神秘的な雰囲気をかもし出している文学である。象徴を多用するので、何を言っているのか、丸きり分からない、という感想を聞くことも多い。

美術界で「抽象画」というジャンルがある。一見、何を描いているのかよく分からない、描き手が何を表現したいのか、その真意がつかめない、眺めているとその絵の作者が、「それ上下さかさまです」などという、それで逆にして見ても、やはり何のことやら分からないのである。そんな時、よく使われる用語が「興味深い」、である、その意味は?「鑑賞者がその絵の核心を理解できないとき、それを偽るために使う万能の言葉」なのだそうだ。しかし絵の核心は理解できなくても、その絵を「美しい、あるいはおもしろいと感じる」なら、どんなに訳の分からない絵画でも、その絵に込められたメッセージは、伝わっているのではないか。ともあれ、黙示録は、絵の具ではなくて、言葉という画材によって、信仰の絵を描きたいと願った著者の手になるものである。今日の私たちから見れば、聊か風変わりだが。そこに、美しいとか、心動かされるというような、そんなみ言葉を発見できれば、黙示録のメッセージを。しっかりと聴いたことになるだろう。

7章の17節「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」、この美しい暖かなみ言葉で、ヨハネがこの手紙で語りかけようとしている相手が誰か、はっきりと記されている。それは今「涙を流している人々」である。キリストのゆえに、信じるがゆえに、生きるに涙している人々、つまりにとってキリスト者は、涙を流している人々なのである。そして彼らは自問自答したことだろう、この涙はいつまで続くのか。

ひとつ、黙示録を読む上で、知っておいたほうがいいのが、この書物は、当時、地中海世界を席巻していたローマ帝国を、強く意識して語られている、という意図である。1世紀末のローマは、周辺の地域をすべて、自分の足元にひれ伏させ、そこから吸い上げた莫大な収益によって、繁栄の絶頂を迎え、豊かさを享受していた。一方、黙示録の著者ヨハネと、この手紙が語りかけている諸教会は、ローマの周辺世界にあって、大帝国の強い影響(圧力)の下に置かれているという図式である。

今日の個所の前の方に「神の刻印」という用語が見える。「刻印」、これは「印鑑」あるいは「封印」を意味する言葉である。公文書や契約書に、印鑑を押される。するとそれが正式の文書となって、公に認可され、効力を発する。古代社会において、印鑑はただのしるしでなく、霊的な生命の象徴、その人の分身、力や権威のしるし、つまり呪術的な意味合いを持っていたのである。この国では、今もそのような古代的観念が息づいているがゆえに、生活に印鑑が必要なのである。

但し、当時の人々が必要としたのは「神の刻印」ではなくて、「皇帝の刻印」である。この時代の人々は、いわば「皇帝の刻印」を押されて、生活を営んでいたのである。その印が無ければ、ローマ世界では旅もできなければ、取引、商売、仕事もできない。つまりすべて「皇帝の刻印」があって生活が成り立っていたのである。どういうことか。ローマが支配する世界では、すべて皇帝のために、皇帝に向かって、皇帝の土台の上に、生活が成り立っているのである。その具体的形態が「皇帝礼拝」即ち、皇帝の彫像に向かってひざまずくことなのである。人々はどのような生活の営みを行うにも、皇帝の名によって事をおこなったのである。仕事を始めるのも、食事をするのも、人間づきあいも、まず皇帝を賛美しほめたたえ、皇帝に忠誠を表明することから始まるのである。それこそが皇帝の刻印が押されるということであり、皇帝なしには生活の一切が成り立たなかったのである。

だから皇帝を拒否する者は、社会の一員とは見なされず、スキャンダラスな人々、国家に禍をもたらす禍々しい存在として排斥、圧迫されるのである。スキャンダラスとは「落とし穴を掘る人」という意味である。そういう人々は、市場に行っても、「お前には皇帝の刻印がない」として、挨拶をしてもらえない、口を利いてもらえない、食べ物も売ってもらえない、ぜんぜん無視される。ヨハネの教会は、そう言う「皇帝の刻印」の前に置かれている。どのようにその刻印が押されるのか。日曜日、週の初めの日、市民は皆、まず、共に集まり、皇帝を讃えてから、一週間の仕事を始めるのである。夏休みの朝のラジオ体操みたいなものである。しかしキリスト者はどうしたか、その人の輪から離れて、教会に集い、ナザレのイエスを「キリスト」とほめたたえ、礼拝するのである。町や村という限られた人間関係の中で、誰がどちらの者なのか、すぐに一目瞭然に明らかになってしまう。

「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」、しかし、このみ言葉の裏側には、泣きながら毎日の生活を送っている人がいる、という事実がある。「皇帝の刻印」を拒否して、「神の刻印」に生きる人々、キリスト者にとって、涙のない歩みは考えられないのである。

そうではあっても、ヨハネは涙によって生活している人々に、その涙にはちゃんと終わりがあること、さらに巨大な怪物のようなローマ帝国も、決して永遠ではなく、人間の営みの中にある、人間の業の中のことでしかないことを告げる。いつか、自分自身の流す毒によって、自分自身の根を枯らし、根扱ぎにされる。セイタカアワダチソウのように。

前述した文章の続き、「そんな話に思い出した。10年以上前に児童発達支援センターを訪れたときのこと。施設内を案内してもらっていると、5歳くらいの男児が笑顔で寄ってきて私の手を握り、並んで歩き出した。施設職員が『(あなたが)優しい人だって分かったんですよ』と言ってくれたが、腑(ふ)に落ちなかった。諸事情あって内心はすさんでいたからだ。後日、はっと気付いた。恐らく男児は元気のない私を見抜き、励ましてくれたのだ。小さな手から伝わった優しさは今も心の支えになっている。こんな寄り添いや励ましはまだまだAIやヒト型ロボットはできない、はずだ」。何がほんとうに人を支えるのか。何が人の心に慰めとなって残り続けるのか。

主イエスは「悲しむ者は幸い」と言われた。それは「彼らは慰められるから」なのである。人はいろいろな「不幸せ、不条理、まさか」に悲しむが、悲しみ続けて終わりと言うことはない。神はそこに、深い慰めを準備してくださっている。人間は生きるとき必ず涙する。涙しない人はいない。しかし、その涙が永遠に続き、その中に埋没するのではない。悲しみは慰められるのである。涙は拭われるのである。その涙とはうらはらに、今、隆盛と力とを誇り、一強の支配を続けるローマも、またこの現代の大国も、いつか倒れるのである。神の前に、悲しむ人の涙は拭われ、人の高慢は砕かれる。主イエスの十字架が、私たちにそれを告げている、神は死を超えて働かれる方なのである。