「真実の協力者」フィリピの信徒への手紙 4章1~3節

こんな新聞コラムを読んだ(毎日新聞2019.7.31)、「2060年までは世界は終わらない」。こう予言したのは、どこかの新興宗教の教祖ではない。古典物理学の父、ニュートンその人だった。むろん物理学者としての見解でなく、聖書の記述からの推論である▲ニュートンには科学者としての顔の他に、錬金(れんきん)術(じゅつ)や神学研究に打ち込む神秘主義者の顔があった。先の予言は先年公開された彼の聖書研究にかかわる文書にあった。つまりは2060年より後は世界がいつ終わるか分からないという▲「キリスト(の再臨=世界の終末)は夜盗のようにひそやかにやって来る。私たちはその時期を知るよしもない」。ニュートンは記す。

世界の「終末」についての科学者ニュートンの預言を話のたねにされている。これは何についてのことだろうか。コラムはこう続く。現代人が「ひそやかに来る終末」で想像するのは地球環境の破局か、核戦争か、未知の感染症か▲恐竜絶滅を招いた小惑星の地球衝突も「終末」の有力シナリオだが、「ひそやかに来る」こともあるのか。先日地球からわずか7万キロの空間を通過した小惑星が発見されたのは最接近の前日だった。まさに不意打ちのニアミスである▲小惑星は直径130メートル、衝突していれば東京都の広さの範囲を壊滅させていた。専門家によれば直径100メートル程度の天体は、かなり地球に接近しないと見えないことがあるという。もしも衝突コースだったら回避する手段はなかった。

私たちが住む地球と言うこの小さな星は、広大な宇宙に対して、決して安全、安泰の環境に置かれている訳ではないらしい。ちょっと間違えば、核兵器以上の威力を持つ小さな星々が、数多、降り注ぐような危険な境遇に置かれているのである。それなのに、いまだに国と国とがいがみ合い、不信の火花をちらし、報復や圧力をかけることに汲々としているのがこの現代である。もしも、突然現れた小惑星が、爆弾のようにこの星を直撃するような出来事がもたらされたら、世界の国々はどのような態度を取るのだろうか。

今日の聖書の個所、非常に短いが、極めて赤裸々な人間の現実、教会の実際が語られており、貴重な証言でもある。今も昔も変わることのない人間の営みが映し出されている。何か。人間と人間の関係の破綻、ほころびの問題である。どこにでもある事柄である。今の私たちが生きている場所でも、身近なところでどこでも起こっている問題である。教会も人間の居場所であるから、それと決して無縁ではない。もしそのような人間関係から無縁だとすれば、いわば教会は「人でなしの居場所」になってしまうだろう。皆さんは人でなしの所にいたいと思われるか。

エウオディア(成功)、シンティケ(幸運)という二人の女性の名前が記される。どちらも縁起の良い名である。おそらく名は体を表しているだろう。この二人は、「クレメンス(おそらく教会の庇護者)他の協力者と力を合わせて、福音のためにわたし(パウロ)と共に戦った」と記される。「力を合わせ、共に」、これだけでもこの二人の女性に対して、最大級の賛辞をパウロは送っていることが分かる。教会での働き、「良いわざ、愛のわざ」は、余分なものを取り除ければ、これに尽きるであろう。何をしたか、何ができたかではなく。さらに極めつけは「命の書に名前を記されている」、この二人の女性が、どれだけ教会で熱心だったか、彼女らの存在が大だったかを物語る文言である。神は救われるべき人間の名を記した謂わばライフ・ノートを携えている、という神話的な発想があったのだろうが、神以外にのぞき見することは許されないノートなのだが、しかし、きっとその名が書かれているはずだ、とパウロは強調する。

ところが、この二人が「主にあって同じ思いを抱け」と呼びかけられている。この短い章句から分かることは、この二人の女性、教会の大黒柱ともいえる二人が、どうも「仲違い」しているようなのだ。「協力して、共に」あるなら、わざわざこんな勧告をしなくてもいい。しかし、なぜあんなに「力を合わせて、共に、福音のために、戦って来た」二人が、どうして今は、仲違いし、決裂し、心を合わせることができなくなっているのだろうか。理由は全く記されていない。その理由として最もふさわしいのは、それが「人間の常」であるから、というしかないであろう。危機の時には、人間は一致できるものだ。あれこれこだわっていたら、外側の圧力に打ち倒されてしまう。危急存亡の時、人間は否が応でも一つになれる。しかし、平和の時、平穏の時代にはどうであろうか。

この二人に対するパウロの態度は、非常に印象的である。手紙の中で、しばしばパウロは上から目線、上から押さえつける物言いで語ることも多い。ところがこの個所は違う。普通なら反目している二人を横に座らせて、「いいかげんに仲直りせよ」と叱咤し仲裁するところである。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧める」とパウロは語りかけている。原文では、「勧める」という語がわざわざ二回繰り返され、ひとり一人別々に語りかけ、話しかけるというニュアンスである。この「勧める」という言葉も、ひざを突き合わせてすぐ近くに寄り添って、静かに語る、という意味合いである。

そしてパウロが二人に語ることはただ一つである。「主において同じ思いを抱きなさい」。この勧めの中で、最も強調されているのは、「同じ思い」ではなく「主にあって」なのである。人はひとり一人が別々の人格であるから、「共に同じ」思いになるのは難しい。却って同じ思いになると言うのは、幻想で、強制された結果なのかもしれない。一つの文言を唱え、ひとつの言葉を唱和することが、同じ思いという訳ではない。「主にあって同じ思い」とは、「主イエスの十字架の前に、共に立って、主イエスの十字架を見上げて、共に思う」と言うことである。主イエスの十字架を目の当たりにして、あなたは何を思うか。主イエスの十字架の苦しみに、あなたはどう答えるか。教会の一致、そこに集う人のこころは、そこにしかひとつになることはない。

パウロは仲違いしている二人に語りかけるだけでなく、教会のひとり一人にも静かに語り掛けている。「真実の協力者よ、彼女たちを支えてください」。「真実の協力者」という呼びかけも、意味深い言葉である。「軛につながれた間柄」、主イエスの十字架につながれている人々、同じように十字架の下に立つ人たち、主イエスの愛に支えられている人たち、その愛で、あの二人を支えてください、とパウロは語る。私たちの許しも和解も平和も、すべてこの一点から現れて来るのではないか。

今日は平和聖日の礼拝である。新聞にこのようなコラムが掲載された。(北国新聞7月29日付)

内戦の続くシリアで写された1枚の報道写真29日付本紙5面は衝撃だった。空爆で崩れたガレキの下敷きになった5歳の女児が生後7カ月の妹を助けようと手(て)を伸ばしシャツをつかんでいる。直後に建物は崩壊。少女は亡くなったという。5歳といえば体も小さく力は弱い。それでも自分より小さな命を助けようと必死に手をさしのべている。

「7歳までは神のうち」との日本の言葉がある。乳幼児の死亡率が高かったころの表現(ひょうげん)とされる。幼児はいつ神の元に帰るか分からないから大切に育てようとの思いがこもっている。が、このシリアの女児の行動は「神」に等しい

戦争の悲惨さを伝える子どもの写真は何枚もある。長崎の原爆で死んだ弟を負ぶって火葬場に立つ幼い兄。ベトナムで戦火を逃れる少女など。どれも涙なくして見ることはできない。しかし世界の紛争は止まらない。そして、今年も戦争を考える8月を迎える

人間の崇高さは時に、おとなよりも子どもが鮮明に見せてくれることがある。この幼い命を守る大人でありたい。そこから行動が生まれ、戦火を止める力になると信じる。

おとなよりも子どもが見せる「崇高さ」、これは十字架の崇高さである。小さく力の弱い子どもが、それでも自分より小さな命のために、必死に手を伸ばす、十字架の愛である。、この十字架の下に立って、私たちもこころを注ぎだし、手を伸ばしたい。同じ思いになって、自分の置かれたところにまた歩みたい。そこからしか平和の訪れもやって来ないだろう。