「自分を欺いて」ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節

 

映画人、伊丹万作氏の著作に、『戦争責任者の問題』という短文がある。「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。(中略)つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」。

「人にだまされることは決してない。自分にだまされるのだ」、ゲーテの言葉だとされる。「詐欺に合った、だまされた」と人は言う。繰り返し繰り返し注意され、警告されても、なぜ人は騙されるのか。そして問題の本質は、誰かにだまされる、だまされているというのではない。ゲーテの言う如く「自分をだましている」ということであろう。しかしこのゲーテの言葉をもっとずっと昔に語った人がいた。それは今日の聖書、ガラテヤの信徒への手紙の著者、パウロである。3節に「その人は自分自身を欺いている、だましている」という言葉が見える。「実際には何ものでもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら」、原文には「ひとかどの者」と言う言葉はない。そう訳すると、自信過剰、うぬぼれの強い人という意味になってしまうが、正しくは「ほんとうの自分の姿を見失っている」と言う意味である。自信があり過ぎても、なさすぎても(私には何もできない)、その人はほんとうの自分から目をそらしている、欺きの人なのである。

パウロの手紙は嫌いだ、と言う人が結構いる。その理由は「上から目線だから」。確かにそういうものの言い方をする人ではある。だから「興味はあるが、一緒にはいたくない」と語った人がいる。語り方の問題がある。同じことを言ったのに、相手がなるほどと思う言い方と、反発を招く言い方とがある。古今東西、人に認められるためには、有力な後ろ盾がいる。それを持たないパウロにとっては、自分の手紙こそが自らの証明書、推薦書のようなものであり、権威のための戦略として用いているから、とにかく気合いが入っている。時に気合いが入り過ぎているきらいがある。但し、その言葉一つ一つは自分の人生経験が強く反映しているのである。そこに彼の手紙の価値がある。

彼は自分をこう言い表わす。「ユダヤ人の中のユダヤ人、熱心の点ではファリサイ人(の誰にも負けない)、律法の義については非の打ちどころのない者でした」。彼はこのプライドで生きて来たのである。これにこだわり続け、それにしがみつき、この上に自分の救いを打ち立てようとしたのである。しかし、復活の主イエスに出会い、「サウロ、サウロ」と名前を呼ばれた時に、そんなものは余計な重荷でしかなく、神の救いとは何の関係もないことが分かった。「神のためにわたしは何が出来るか」から「わたしのために神は何をして下さったのか」という方向転換、悔い改めである。人生において、主語は「わたし」ではなく「神」なのである。それで自分で自分を欺いていたことが分かった、それまで自分で自分をだましていたことが、はっきり示されたのである。彼にとってこれはつらい体験であったろう。これこそ自分、自分の誇り、と考えていたものが、単なるゴミ、埃、塵芥だったことを知ったのである。

今日のテキストの冒頭の言葉、1節「霊に導かれて生きているあなたがた」という言葉がある。いささか意訳が過ぎる。直訳すれば「霊の人」という単純な言葉である。パウロはキーワードを非常に上手に用いる言葉の能力に長けた人である。「霊の人」、この言葉に対比されるもう一つの言葉は何か、「肉の人」。皆さんは、ご自分をどちらに属すると思われるか。

これは肉が好き、野菜が好き、という食べ物の嗜好のことではない。また、近頃「肉食」「草食」などという言葉で人間が区分けされたりする。どの道、人間は「雑食」である。何でも食べる、だからこそこの星で生きて来られた。ありとあらゆるもの、何でも食べてきたことが、人間の生存の背景である。「雑」という漢字は、ぼろ布を寄せ集めて作った「衣」のことであると言われる。ちょうど「キルト」のようなものか。様々な色や形の布切れが、ひとつに綴り合せられている。これは人間社会の有様とともに、教会のイメージにもふさわしいだろう。

すべての人間を、2つのカテゴリーに分けて、どちらに属するのか、で人間を判断する、あるいは理解するというやり方は、暴力的であり、大抵は欺瞞である。善人と悪人、義人と罪人、偉人と凡人、優等生と劣等生、国民と非国民、しかし人間そのものとして見るなら、その善と悪に、義と罪に、優と劣にどのくらいの違い、隔たりがあるのか。結局、はっきりした線引きなどできるものではない。

「霊の人」「肉の人」という区分けも、同じことだとは言える。誰もがいくらか霊の人であり、肉の人なのだ。パウロもそれが分かりつつあえて、議論を明確にするために、こういう対比を用いているのである。但し、「霊の人」、「肉の人」とは、具体的に、人間のどういう側面を物語っているのだろうか。皆さん方はどうイメージしているのか。決して肉好き、野菜好きという意味ではない。(あたり前である。ごく高齢の方で、元気な方は結構、肉が好きだと言われる。人間、何でも食べれば健康なのである)。

こんな譬えで考えてもらおう。「自分の意思をしっかり保ち、誰かに言われないでも、するべきことはきちんとできる人」。これはどちらか。また「ぐずぐずしていて自信がなく、しっかり行動出来ず、いつも誰かの支えを求める人」、これはどちらか。前者が「肉の人」、後者が「霊の人」のあり方である。「肉の人」とは、神がなくても生きられる人、「霊の人」とは、神なしには生きられない。実のところ、「霊の人」の生き方とは、この世的には、何と情けない生き方であろうか、と言うことになる。

1節はこう直訳出来る「もしも誰かが、何か過ちに陥ったとしても、霊の人であるあなたがたは、そのやわらかな霊をもって、その人をもとにもどすことができる」。聖霊は「やわらかな霊」であるという。人の罪や過ちを、足りなさを、ことさら責めたてるのでなく、厳しく罰するのではなく、やわらかく包み込む霊であるという。過ちや失敗のある所、激しい感情、言葉が交わされ、いがみ合い、罵倒、悪口がなされる。それでは、人はもとにもどることはできないだろう。聖霊、神の見えない働きを知る人は、神の見えない導きの上に生きようとする。人間の心の思い、手の技の働きをこえて、働かれる神のみわざに活かされるであろう。私たちが戻るべきところは、自分の働きの場ではない。絶えず自分が破れて、神の働きの場に戻るのである。

こういう詩がある。近頃話題になっている。「くじけな/こころゆくまで/くじけな/せかいのまんなかで/くじけな/くじけな/くじけないでと/はげますあいのつよさに/くじけそうなときには/くじけな/くじけな/よし/くじけてよし/くじけたこころにしか/みえないものをみあげ/ほほえんでいればよし(枡野浩一未刊詩集『くじけな』表題作)」。

「くじけなさい」と歌われる。「この歌集には一切の前向きな言葉はありません」とは作者の前書き。「くじけたこころにしかみえないものをみあげ」。これは実に聖書の人々の心であろう。聖書の人々は「聖なる民」であるという。彼らは自分の力で聖、清い人々ではなかった。常に「つぶやき、かたくなで、くじける」民であった。その民に神が寄り添い、手放さず、言葉をかけ、共に歩まれた。これは人間にできることではない。ただ神だから出来ることである。だから神にのみ出来ること「聖」と呼ぶのである。この聖霊の働きの中で、絶えずそこに戻りつつ、私たちの人生は形作られていくのである。