「あなたの近くに」ローマの信徒への手紙10章6~17節 「花の日・子どもの日」礼拝

6月は、一年中で最も花の多く見られる時期である。梅雨に入って、雨の中、紫陽花が色とりどりに、美しく咲き乱れている。雨の合間、犬の散歩に近所を歩いたら、見かけない黄色い花が咲いている。花の形は「つつじ」に似ているが、初めて見る花であった。家に帰ってから、PCで花の名を検索した「6月、黄色い花」、するとすぐ「弟切草」と出てきた。便利な時代である。古来から薬用にも供されて来た植物らしい。この年になっても、初めて出会うものがあると言うのは、幸いなことだ。近所に咲く野の花も、決して当たり前の、価値ないものでは決してない。
最近、こういうエッセーを読んだ。昼下がり、近所でキャッチボールの光景を見かけた。新型コロナウイルスのせいで休みが続く、まだ幼い小学生のようである。家の中で過ごすのをかわいそうに思ったのか、おじいちゃんが玄関先でボールを受けてあげている。通りかかった主婦がにこやかに声をかける。心なしか少年の一投にも力がこもって見えた。ずっと以前、高齢化が進む住宅街を取材したことがあった。ふと住民がもらした言葉を思い出す。「どこからか、たまに子どもの声が聞こえるだけで、涙が出そうになる」。
確かにその通りである。この二カ月ほど、教会の前の通りに、学校に行きかう子どもの声がしない。朝など本当に人通りがなくて、閑散としていた。その代わりに我が物顔をしてうろついているのは、カラスであった。こちらがゴミ出しをしたごみを、虎視眈々と狙っている。
今日は「花の日・子どもの日」である。教会に子どもたちが与えられていることを喜び、感謝し、この大切な子どもたちが、神様を心に信じて生きてほしいと願い祈る日である。毎年、子どもの教会では、子どもとリーダーが連れ立って福音の家を訪問する。子どもがお年寄りの傍に行って、花を手渡し、一声かけるだけで、そこにいる皆の顔がやわらぎ、笑みが漏れる。花も子どもも、あって当たり前、居て当然という存在では決してない。非力な物、小さなものは、大きなものに力ではなぎ倒されるかもしれない。しかし、その大きな力が決して働きえないところに、真の力を発揮するのである。歌人の伊藤一彦さんにこういう一首がある。「雨に負け 風にも負けつつ生きてゐる 柔らかき草 ひとを坐(すわ)らす」。雨にやられ、風に倒れた草は時として、人を休ませ、慰める。
パウロの最長の手紙、ローマ書の中でも、よく読まれ、良く知られている個所である。この個所の前半は、バプテスマを受けようとする「洗礼志願者」に対して、「勧告」として読まれるテキストとして用いられてきた。かつて受洗の時に、このみ言葉が読まれたことを記憶されている方もいるだろう。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」(10節)。バプテスマの意味の説明として、これほど分かりやすい説明はないだろう。まだ若く幼い洗礼志願者が念頭に置かれているのかもしれない。12~3歳ごろには成人を迎えた時代である。しかし若い時にただ「一度」だけではなく、キリスト者とは毎日毎時、このようにして、人生の道を繰り返し、繰り返し歩むのである。
ただこの10節を、パウロは非常にデリケートな言葉使いをしていることに注目したい。直訳するとこうなる「心で信じられて義に至り、口で告白されて救いに至る」。文法的に、受身形が多用されているのである。もっと訳せば「心で信じさせられて、義に至らしめられ、口で告白させられて、救いに至らしめられる」というのである。パウロの救いは、徹底的に受身形で表現される。信仰者は親に養われる子供の如く、天から水のしたたりを待つ花の如く、恵みによって生かされ、育てられ、養われる、のである。霊的な成長においても、「人間のわざ、行為」は出る幕がないのである。ただただ神、主イエスが主体であって、その神が恵みによって私の人生、私の心に働いて下さり、初めて信じるという出来事が起こり、その神の恵みに、ただただアーメンと応答する、それが信仰であり、救いへの道なのだと言う。人間の努力や人間の誠実に対して、神は褒美のように、恵みを与えて下さるのではない。逆である、信じない者のために、不実な者のために、キリストが十字架で苦しみ、血を流されたのである。
「信」の根本は、ただ私とイエス、その間の繋がりと絆である。主イエスとどのようにつながっているか、結ばれているか、は余人の伺い知れるものではない。誰も何も、余計なものは挟みようがないのである。だからこそ「心で信じて」なのである。
私たち皆がそうであったように、主イエスからの、何らかの呼びかけがなければ、私たちは誰一人、信じることは不可能である。何年教会に通っても、神学校で隅から隅まで聖書を詳らかに学んだとしても、主イエス自身が、その人に呼びかけるまでは、信じることはできない。そして主イエスは、聖書を通して、あるいは誰かとの語らいの中で、巷間で起こる事件や出来事を通して、その人だけに分かる、いろいろな手段や方法で、私たちに問い、語りかけるのである。
それでは後半の「口で公に言い表して」をどのように理解したらよいのだろうか、生まれたばかりの赤ちゃんは言葉をしゃべれない。またしょうがいや病気のゆえに、自ら語ることができない場合には、「救いの道」から外れてしまうのか。毎日、口に出して自分の信念を吐露する、というのは意味深いことではあろう。人は自分の口から出る言葉を、全く裏切ることはできないからである。人間だから、時に嘘は語るかもしれない。ところが「嘘から出たまこと」というように、嘘を言っても、そこには自分の本当が見え隠れするのである。
立派な証し、信仰告白、情熱的な説教、確信に満ちた高説が「口で公に言い表す」ことかではない。「告白」というのは、そんなきちんとした形を取るものばかりではないだろう。本当に自分の心にある事柄を、正直に表に出すとすれば、恐らくしどろもどろになり、要領を得ず、まだるっこしく、らちが開かないものになるだろう。ただ一つ言えることは、主イエスから名を呼ばれた人は、必ず「主の名を呼ぶ」(13節)ことになる。告白とは、結局、「(互いに)名前を呼ぶこと」に尽きる。子どもも「名を呼ばれて」成長するのである。
「はなののののはな/はなのななあに/なずななのはな/なもないのばな」(谷川俊太郎「ののはは」)。名もない花に、季節を与え、雨を降らせ、育てられる方がおられる。目には見えないが、ひとつひとつの生命あるものに目を注ぎ、呼びかけておられる。その方を覚え、私たちも祈りにおいて、その方の名を呼ぶ。信仰の告白とはそれだけである。