ステイホームの要請で、学校の休業、テレワークの進展によって、家族の皆が家の中に、共にいる時間が増えた。「共に」というあり方は人間にとって、もっとも基本の生きる姿勢であると思う。「歌」を歌う哺乳類は、人間だけと言われるが、この能力も、一緒にいろいろな声を一度に発して、野生の獣の脅威に対抗しようとしたことから、あるいはその獣の獲物を横取りして、自分たちの腹を満たすための方策だったことが、論じられている。生身の身体では、他の生き物に太刀打ちできない劣勢を、「共に」という手段によって跳ね返し、人は生き延びてきたのである。
ところがこの「コロナ禍」で、家族の皆が「巣ごもり生活」を余儀なくされると、「共に」が重荷であり、苦痛であることが、時折語られるようになった。食事の用意、掃除、洗濯等の家事の現場に、いつも顔を突き合わせる家族がいる、これが苦痛の種になるらしいのだ。「共に」という価値は、人間にとって自明な、当然であって当たり前の事柄ではないらしい。
「折々のことば」にこういう文章があった。「失うという事を 知らない人がいる。得るという事を 知らない人がいる。何だか最近は そんな可哀そうな人ばかり(ブッシュ孝子)」。持つ人と持たない人に裂かれた社会。けれども、失ってはじめてそれがいかに稀有(けう)のものだったかを知ることがある。たとえば幸福、あるいは平穏な日常?(5月27日付「折々のことば」)
家族、夫婦、子ども、両親、隣人、友人、居て当たり前と思っている人がいる。身近な人間関係を作るのに、大変な思いをしている人がいる。関係が苦手で、あるいは意図して、あるいは意図せずひとりで暮らしている人がいる。失って初めて、人間同士のつながりが、「稀有なこと」であるか知る、この数カ月の間の生活の中で、見えてきたことであろう。
一番身近な人間関係は、「家族」と言われる。ではその基本単位はどちらか、という議論がある。ひとつは「夫と妻」つまり「夫婦」が家族の最小単位である、という考え方。もうひとつは「親と子」が、家族の最小単位であるという考え方である。皆さんは、最小の「家族」をどちらと考えるか。現代の法律では、「親と子」の関係は、双方の状況如何によっても、本質的には絶たれることはない、と見なしている。一方夫婦は、「婚姻」という制度や、双方の了解によって。成り立つものであるから、ふたりの意志如何によって、絶たれることがあり得る。家族というものに、「血縁」を拠り所にするのか、あるいは「意思」や「契約」を重んじるのかで、その見方は随分違ってくるのではないか。
聖書では、最も基本的な関係は、「夫婦」だと見ている。親子は、いつか離れ離れになって、独立していくものだからである。「人は父母を離れて、女と結ばれ二人は一体となる」(創世記2章24節)。ところが、古代イスラエルにおいて、結婚は、「契約」によって結ばれる「制度」なのである。つまりいかなる「契約」も、双方の者たちによって交わされるものである限り、「破棄」という事態が生じる可能性を持つのである。
今日の聖書の個所は、「離縁」が話題になっている。パウロが記したコリント人への手紙一7章には、結婚の問題が議論されている。パウロの時代の教会で、差し迫った終末を前に、「結婚」というこの世的な関係を解消した方が、救いのためにアドヴァンテージとなるではないか、という議論がなされていたのである。パウロの答えは、「そのままに」という穏健なものである。
マルコの教会にあっても、同様な議論がなされていたのだろう。しかしマルコの方はもう少し突っ込んで、「離婚」の是非について、詳細な議論がなされている。終末を意識することから、キリスト者は各々の救いを達成するために、独身を保つべき、独身に戻るべきという強い主張をするグループがあったのだろう。ファリサイ派に仮託して、「離婚」の是非を主イエスに問う、という形で記されている。
恐らく歴史的イエスにも遡るだろう物言いが、表現されているだろう。「モーセは何と命じているか」。つまりあなた方自身は、どう判断するのか、と問うているのだが、この時代の判断の基準はやはり「律法」である。申命記24章1~3節の戒めをもって、問われた相手は答えている。新共同訳では「再婚について」との表題がつけられている。この規定をどう理解すべてきか、様々な議論がある。律法自体も、「妻に恥ずべきことがあって、気に入らなくなった時、離縁状を書いて」と一定の条件を付けているので、夫が恣意的に離婚することが容認されているわけではない。
但しこの規定に対して、主イエスの姿勢が興味深い。「あなたたちの心が頑固なので、モーセはこの掟を書いた」。「頑固」という用語を、文語訳聖書は「無情(つれなき)によりて」と訳している。この用語は「粗暴なこと、また従って頑固なこと」という意味を表している。「粗暴」の意を重く受け止めれば、「DV」の犠牲となっている女性に、主イエスが、深く心を向けたことになる。律法の規定自体は、夫の「横暴」というニュアンスは含まれていない。家庭において、夫の横暴に対する妻の苦しみを、主はよくご存じであった、と言ったら読み込み過ぎだろうか。
主イエスの結婚に対する見解は、非常にまっすぐ本質的である。6節「天地創造の初めから、しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」。すべての関係と同じく、夫婦の関係もまた「破綻する」現実を、主は良く知っておられる。しかし同時に「結婚」という結びつきが、当たり前のどこにもあるような、軽々しい関係ではなく、天地創造の初め、人が形造られた時、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために助ける者を創ろう」と言われた神のみこころの反映が、そこにはあるのである。このふたつの視点から「結婚」が語られることに、深く心動かされる。
「神が合わせられたものを、人は離してはならない」。この主のみ言葉は、単に離婚の禁止を示すものではない。人と人との出会い、そしてそこで編まれる関係は、決して損得や欲望や利害からのものではなく、そこにも深い「神のみ手」が伸ばされていることを、家族と過ごす時間の多い、この時に、思いを拡げたいものである。