祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書11章12~19節

「サンドウイッチ」という食べ物がある。食パンにハムや卵等、いろいろな具材を挟んだ簡便な食べ物である。この国にもすっかり定着している。「ピーナッツバターたっぷりにバナナを挟んで」が好物の人もいる。1世紀のユダヤ教の律法学者(ラビ)ヒレルは、過越の際に、犠牲の仔羊の肉と苦い香草とを、昔風の柔らかいマッツァー(種無し、つまり酵母を入れない平たいパン)に包んで食べたと伝えられている。これがサンドウィッチの起源だ、という意見もあるが、パンに副食を離さんで食べるという発想は、パンが食されるようになった最初からの習慣だろう。
今日の聖書個所は「難解」である。記述自体は、決して難しいことはないが、このような伝承が指し示す「事柄」あるいは「真意」の理解となると、皆目、見当がつかない。これらの伝承を採集し、福音書を編む材料にしたマルコも、おそらく当惑しつつ、筆を進めている趣きである。最初の伝承は、「いちじくの木を呪う」である。その後に「神殿から商人を追い出す」伝承が続き、また再び「いちじくの木」の話に戻って結末が伝えられる。聖書学で言う所の、「マルコ福音書のサンドウィッチ構造」である。さながら「いちじく」の話が「パン」であり、「神殿」の話が「具材」である。読者はこれを一緒に食べなくてはならない。どんな味だろうか。なる程、奇妙な風味である。
どこが奇妙なのか。聖書の世界でも「旬」がある。近頃は栽培技術、保存技術の進歩によって、一年を通して、いろいろな食材を口にすることのできる時代である。いつでも望む食べ物が手に入れられる。半面、季節感が失われ、却って食生活が平板になったとも言える。聖書の時代は古代であるから、収穫は「季節」がもたらす恵みである。「いちじく」等その典型で、夏から秋の初めに結実し、実が熟す。聖書の世界で「夏の果物」の代名詞がその果物である。因みに「いちじく」は漢字で「無花果」と書く。実は厳密には果実ではなく、花にあたる部分で、果実のように見える部分は、花軸が肥大化したものであり、切った時に粒粒のように見えるものが花、実の中に花が開花するから「無花果」である。
聖書の世界では、いちじくは、神のみ前に供える「感謝の捧げもの」の一つであった。そのまま生食する他、乾燥させて「干しいちじく」として用い、甘味の少ない時代、貴重なデザート、またおやつになった。小腹が空いたときには、格好のおしのぎだったことは、想像に難くない。主イエスもまたそうだったのであろう。ちょっと口寂しくなっていちじくの木に近寄られた。するとひとつも実がなっていなかった。「いちじくの季節ではなかったからである」と説明されている。
いちじくには、初夏から夏にかけて実がなるものと、秋に実がなるもの、そして初夏と秋両方に実がなるものがあるそうだ。一般的な露地物のいちじくの収穫期は長く、夏の8月頃から10月頃まで、と言われる。ある聖書学者は、「時たま、季節外れに実る果実もあるようだ」、と想像を巡らしているが、どうだろうか。あればラッキー、なくて当たり前の季節である。ところが、季節外れで、実のなっていないいちじくの木に向かって、主イエスは「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と呪ったのである。これでは「いちじくの木」が、あまりにかわいそうではないか。「弟子たちはこれを聞いていた」という。つまり聞き違いではない、ということである。
そして次の伝承もまた不可解である。一般に「宮清め」と呼ばれる出来事である。主イエスは「神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された」と過激なふるまいをされる。そもそも商人たちは、境内で勝手に商売をしていた訳ではない。神殿当局の許可を受け、大祭司の認可を得て、(おそらく鑑札を掲げていたろう)、けっこう多額の手数料、場所代を神殿に支払って、まっとうに商売に精を出していたのである。参詣人は、汚れている世俗の硬貨では、お賽銭には適さないから、神殿専用の清い硬貨に両替する必要があったし(両替に手数料を取られ、そしてその神殿専用貨幣は、すべて賽銭として捧げられる)、また一番手軽な犠牲の供え物が、「鳩」だった。手ぶらで神のみ前には出られないが、前もって自前で準備するのはやっかいである。だから、神殿にこれらの小商人がいなければ、参詣者は非常に不都合だったろう。そして、こうした商売人からたっぷりと甘い汁を吸っている、自らの手を汚さない巨悪は、実に神殿の奥にいる。商売人の「台や腰掛」をひっくり返しても、怒りの矛先が違うのではないか。
これら2つの伝承が表す不可解な物語を、私たちはどう読み取ればよいのだろうか。ひとつは、主イエスの「聖」性を伝える物語であるという理解である。主イエスは神の子であり、聖なる方である。ルドルフ・オットーという宗教学者は、すべての宗教的意識の根本には、「聖なるもの」にふれた時の「畏怖と魅惑」があると論じている。そのような感情の表白が、これらの物語の背後にある。しかし、これではただ主イエスが、不気味なオカルト的霊能力者であるかのような理解になってしまわないだろうか。
「季節外れの、実のなっていないいちじくの木」、そして「祈りの場所」には程遠い、喧騒と商売と、底知れぬ権勢と欲望の渦巻く「巣窟」となっている「エルサレム神殿」、こういう状況や場所からひたすら身を引いて、汚れから隔絶して、自身を厳しく律して生きる、という生き方もあるだろう。君子危うきに近寄らず。しかし、この厄介な世界、そして典型的なこの世、どちらにも主イエスは足を向け、そこに近寄り、その真ん中で言葉を掛けられた。つまり私たちの世界のいかなる場所も、主イエスと無縁の場所は、ないのである。
主イエスから「食べる者がないように」と言われ、枯れてしまったいちじくの木は、実に哀れである。さらに「祈りの家を強盗に巣にした」と主に喝破された神殿は、その後半世紀も経ずに灰燼に帰したのである。ものこそ違え、両者は同じ運命をたどった。しかしそこにも主がお出でくださった。この事実を、恵みとするか呪いとするか、私たちも深く問われている事柄であろう。