「いちじくの木の下に」ヨハネによる福音書1章35~51節

昔、生家の周りには、ぐるっと囲むようにいちじくの木が植えられていた。成長が早く果実がなるということで、戦後の食糧不足の時代の名残りだったかもしれない。稔れば口にしたが、たいして美味しいわけでもなく、人間より虫蟻の方が機先を制していることが多かった。木登りするのに手頃な高さなのだが、枝が折れて痛い目を見ることもしばしばだった。

アラビア半島原産と言われる「いちじく」だが、聖書では70回ほど言及され、旧約では冒頭にすでに登場して来る、即ち、アダムとエバは、楽園で禁断の木の実を食べた直後に、自分たちが裸であることを知り、これを恥じて、「いちじくの葉で腰を覆った」と記されている(創世記3:7)。この物語の背後には、聖書の人々にとって、この果実が最もありふれた果物であることが意識されている。それは「夏の果物」と称されていることからも分かる。さらにいちじくは、イスラエルを祝福する7つの産物(小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろ、オリーブ、ナツメヤシ)のひとつともされている(申命記8:8)。

旧約に時折「自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座る」という慣用句を目にする(ミカ書、ゼカリヤ書)。この文言から、皆さんはどのような状況を思い浮かべるか。茂った葉の陰に隠れて、暑い日射しを避け、涼風に吹かれてのんびりと寛ぐ、実りの季節ならば、手を伸ばせば上には美味しい実がたわわになっており、食べて小腹を満たすこともできよう。聖書の人々にとって、それはエデンの園を思わせるような至福の情景だったろう。だから「木の下に座す」とは「平和と繁栄」のシンボルともされている。確かに戦乱や災害の起こっている最中に、あるいは雪の降る真冬、大嵐の中では、こうした悠長な振る舞いはできないであろう。

ヨハネ福音書は、別名「第四福音書」と呼ばれるが、それは前の三つの福音書が共通する観点によって記されるので、「共観福音書」と呼ばれるのに対して、極めて独自な見地から記されていることによる。今日の個所、弟子の召命の経緯も、共観福音書と筋書きがずいぶん異なる。他の福音書では、最初の弟子の召命は、ガリラヤ湖のほとりで網を手入れしていた漁師たちに、主イエス自らが声をかけて、弟子にする、という記述である。ところがこちらでは、最初、バプテスマのヨハネが自分の弟子の二人にイエスを紹介し、二人は主の泊っているところについて行って、自分から弟子になったことが語られる。この二人の内ひとりは、アンデレであるが、もうひとりは名前が記されていない。しかし、このひとりが「ヨハネ」であることは、明らかである。もうひとつ他の福音書では筆頭弟子として描かれるシモン・ペトロは、三番目の弟子なのである。

今日の個所で最も印象的なのは、とりわけヨハネだけに独特な記述がされているのだが、主イエスとナタナエルとの間になされる対話である。この部分はひじょうに生き生きと描かれている。彼は主イエスについて、「ナザレから何の良いものが出ようか」と辛らつに批評する。ガリラヤの町のひとつ「ナザレ」は、これまで何度も考古学的発掘がなされたが、余りかんばしい発見が見られた場所ではない。発掘したものの本当にここが「ナザレ」か、と疑問視されたりもした。その成果によれば、当時の生活人口は、マキシマム800人、ミニマム200人程度だったろうと推定される。つまり、ナタニエルの言う通りの「寒村」なのである。だから彼の言葉は、完全にナザレを小ばかにした言い方である。あんな辺境のど田舎から、目ぼしい逸材が生まれ出るはずがない。歯に衣着せぬ物言いである。ここにナタナエルの性格が如実に読み取れるだろう。

彼は心に思ったことを、すぐ口に出してしまうタイプの人間である。こういう人を、世間は、いやあなたはどう考えるか。「おいおい」「そこまで言う」というようなこと、周知の事実だが、表立って言いにくいことを、皆に代わって声高に語るのを聴くのは、はた目には内心痛快かもしれないが、片腹痛いものである。大声で言うものだから、そのご当人(主イエス)の耳に直に入ったのであろう。何と間が悪いことか、それを計算して敢えて発言したのかもしれない。しかしこういう状況で、その言った方、聞いた方、それぞれ当事者たちがどう反応するかで、得てして人間の度量や技量が明らかにされるものである。ヨハネの書き方が生き生きしているというのは、その辺りの様子が非常に巧みに再現されているからである。

主イエスは彼のことをこう評した。「まことのイスラエル人、この人には偽りがない」、「偽りがない」とは、「嘘が言えない」という意味である。イスラエル人にも色々いたろうが、心に思ったことを包み隠さず、全部口に出してしまう。嘘が付けない、お世辞やごまかしや忖度を知らない人間だというのである。皆はナタナエルをどう思うか。こういうあけすけな人間は、腹は立つが、付き合いやすい。なんせ、本音しかないのだから。駆け引きは必要ない。主イエスは彼に好感を持ったようである。おそらくペトロとは正反対の性格だったのだろう。ここにヨハネの批判の目が現れているのかもしれない。

ナタナエルについて主イエスはこう語る。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」。こう言われて、彼はびっくり仰天し、思わず「神の子」と信仰の告白をし、自分の方から弟子として従うのである。ここで、主イエスは「いちじくの木の下に」というイスラエルのなじみの慣用句によって彼を評している訳なのだが、どういうつもりでこう評しているのか、さらにこう言われて、ナタナエルはどうして主イエスに敬服したのか、ということである。

「いちじくの木の下」とはどういうことか、一説に「瞑想」を意味し、主イエスの時代、敬虔な人は、その木の下で長時間、瞑想し祈った、という。またいちじくの木の葉は大きく、暑い陽射しをよく遮るので、涼しいから学校設備の整わない時代、いちじくの木の下で、子供や若者たちに、村の知者と目される人によって、知恵の学びが行われた、という。その教師は「いちじくの木の下に立つ者」と呼ばれたのである。

しかし、それよりもありそうなのは、いつも所在なく「いちじくの木の下に」いるような、愛想のない、とっつきにくい、根っから不器用な人物ということではないか。そしてそれが「イスラエル人らしさ」だというのである。その彼を、主はきちんとご覧になっているのである。人間、時に不遇をかこち、力なく座り込むこともあるだろう。ひと時ではない、自分の人生ずっとそうだ、と嘆く人もあるだろう。主イエスは、ナタナエルに「おまえはいちじくの木の下がよく似合っている。いちじくの木に相応しい奴だ」と言われた。彼は「ぎょッ」としたことだろう。このナザレ人は、自分のことを既によく知っている。一言で「自分の生き方、自分らしさ」を見事言い当てられてしまったのである。

「おまえはいちじくの木の下がよく似合っている。いちじくの木に相応しい」という人物評は、どういう類のものか。もちろん「ほめ言葉」には違いないが、そればかりではないだろう。「いちじくの木のもとに、座り込んでしまっている」。つまり、知恵と知識を身に付け、あれこれ人にも教える、指図する、皆からひとかどの人間だと言われる、尊敬もされる。ところが自分の場所に座り込んで、そこから一歩も歩み出そうとしない、そういう呼びかけを彼は聞き取ったのではないか。もちろん主イエスは、そんな批判がましいことを、おくびにも出しているのではない。ナタニエルは主の言葉をこう聞いたのである、「このナザレの人は、自分のようにひとつところに座り込んでいるのではない、さまざまなところを、町や村を歩き回って、まったくこだわりなく、どんな誰とでも見知らぬ人に出会って生き、言葉を交わし、病をいやし、食事を共にしている。この方の生きている世界はいったい何なのか」。

奥田知志牧師が、ある講演『生活困窮者への伴走型支援と地域共生社会』の中で、「社会的孤立の現状-なぜ、人は助けてと言えなくなったか」についてこう語っている

「2008年リーマンショック後、雇い止めや派遣切りに遭った若者が路上に投げ出された。

彼らの多くは『助けて』と言えなかった。なぜ、彼らは『助けて』と言わなかったのか。(中略)第二の理由は、『他者がいない』こと。路上の青年に『大丈夫?』と声をかけても彼らは『大丈夫です』と答えていた。プライドがそう言わせるのか。それだけではない。彼らは自分の現状を認識できないでいた。隣に座り込み、話しているうちにだんだんと自分の状況に気づき始め、ついには『助けてもらえませんか』と言い出す。なぜ、そうなるのか。人は他者との関係の中で自分を知るからだ。他者性が無くなると自分が解らなくなる。孤立による自己認知障害により、危機感すら持てず『助けて』と言わない。それが孤立ということに他ならない」。

奥田牧師は言う「人は他者との関係の中で自分を知るからだ。他者性が無くなると自分が解らなくなる」。木の下に座っている者を、主イエスは放って置かれない、心を閉ざしていても、声を掛け、ご自分のみわざへと招かれる。その時、そこで何が起こるか、「イエスは答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる』」。「もっと偉大なことをあなたは見る」。またこの年も私たちは、主イエスと新しく出会う中で、この神の働きを、目の当たりにしながら歩んで行くであろう。