「この人に現れる」ヨハネによる福音書9章13~41節

全国老人福祉施設協議会が、60歳以上の男女を対象に募集した「60歳からの主張」川柳部門の入賞作の一つ。「白内障 術後に知った妻のシワ」。顔に刻まれた年輪を見てどう思ったのか聞いてみたい。それまで「見えている」と思っていたことが、単なる「思い込み」であった、本当に見えるようになって発見した驚きか、あるいは変わらないと思っていた身近な人間の、いつのまにかの変化に対する感慨だろうか。

今年はオリンピックの開催年であるが、それに引き続いて「パラリンピック」が開催される。現在は、かつてはなかったような競技が、いろいろと開催される。やはりスポーツも進化するのである。そのひとつにブラインドサッカーという競技がある。5人一チームで、基本的には目の見えない選手同士が、音の出るボールを使って行うフットサル(ミニサッカー)のようなゲームである。

ある新聞記者がこういう体験を記している。「まばたきの音」。「目が見えない人らがプレーするブラインドサッカーの取材を続けている。原点は四年前。全盲の女性アスリート(34)にインタビューした時の驚愕体験だ。目が見えない人は聴覚など他の感覚が研ぎ澄まされると聞いたことがある。彼女も「まばたきの音だって分かる」と平然と言った。静かな部屋で向き合い、まさかと疑うと、「ほら、今した」。まぶたがこすれるかすかな音を聞き取っていた。帰り道、全盲の彼女が『できないこと』ではなく、彼女だから『できること』に興味が湧いた。ブラインドサッカーも同じ。自分にはできないプレーが繰り広げられるから面白い」。

さて、またヨハネ福音書から学びたい。「だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」。主イエスの時代のユダヤの観念である。そしてそれから二千年経った現在、いまだにこの観念は、時々幽霊のように立ち現れて、人間の心を縛り付ける。不条理なこと、何か不都合なことがあれば、その原因をどこかに求めようとする。原因が分かったところで、どうにもならないのだが、原因が特定されると、何となく落ち着いた気持になる。しかもその原因とやらは、確たる証拠や根拠もなく、手前勝手な思い込み、なのであるが、さらに傷つき、傷んでいる人の傷に、塩を擦り付けるように働く。「誰かの罪か、本人か、親か」、これが何の救いになろう、何の慰めになろう。介助犬や、盲導犬は、「犬」である。その犬は、「誰かの罪か、本人か、親か」などとは言わない。その「犬」が、黙々と人間の目となり、耳となり、生活や道案内をして、導いてくれるのだ。見えていないのはどちらか。

「誰かの罪か、本人か、親か」と弟子たちから尋ねられて、主イエスは言われた。「神の業がこの人に現れる」、「神の働きがあきらかにされる」とは何のことを指すのか。まず、何より、生まれつき目が見えない人が、見えるようになる。視力の回復、病の癒しである。但し、病気が治るという「奇跡」のみに私たちは目を眩まされてはならない。前の説教でベトザタの池の畔に横たわっていた38年もの間、歩けない人に、「良くなりたいか」と言われた主イエスの問いかけは、「治ってどうするのか」という問いでもあると語った。たとえ積年の病気が奇跡的に治癒しても、それで人生の問題がすべて解決し上手くゆく、というものではない。治ったがために、却って過酷な運命が始まることだってある。そこからまた大変な人生が始まるのである。そもそも大変ではない人生などないのだ。それは病であろうが、貧困であろうが、孤独であろうが、それぞれの大変さがそこにはある。翻って言えば、大変だから生きる意味や値打ちがあるし、喜びや満足も生まれて来るだろう。「楽しい」しかし「楽ではない」。

神のみわざというが、視力が回復した、それのみで考えることはできない。目が見えるようになってからの、この人の歩みがどのようなものになったか、そこに現れている神の業、働きを読み取らねばならないだろう。神の働きは、点ではなく線である。結果ではなくプロセスの中にある。皆さんは、この人、名前は記されていないが、の振る舞いや言葉を通して、どのような神の働きを見出すのだろうか。主イエスと共に始まり、主イエスと共に、さらに出来事が起こされていくのである。

目が見えるようになって、以前の彼のことをよく知る人が、彼を見て口々に言う「あの物乞いのようだ」「いや別人だ」「似ているだけだ」、誰もが訝しく感じ、何となく怪しんでいる。あの目の見えなかった彼のようだが、どうも今までと違う。主イエスと出会って、その出会いは、人を以前のその人と、どこかしら変えるのである。皆さんは、主イエスと出会って、どこが変化しただろうか。

この人の両親も同じである。「なぜ息子がそうなったのか、私たちには分からない。あれはもう大人だから、本人に聞いてくれ。自分のことは自分で話すだろう」。ユダヤ人たちを恐れてこう言ったとヨハネはコメントしているが、これはいつまでも子供だと思っていたわが子が、いつのまにか成長し、すでに自分の世界を歩き始めていることへの、親の実直な思いが込められているように思う。子どもの変化に驚きつつ、自分たちとの間の距離を思い寂しさをも感じている言葉であろう。

この目が見えなかった男の変化とは、端的に何を指すのか。目が見えるようになるとは、何を指し示しているのか。「見える」ということは、単に肉体的な機能だけで計り、とらえることはできないということである。主イエスは執拗に非難するファリサイ派の人々に、辛辣に語っている。40節以下「引用」、「見えると言い張るところに、あなたがたの罪がある」。本当は見ていないのに、否、かたくなに見ようとしないのに、自分たちは見えている、分かっていると言い張る、私たちの人間の罪の根が、抉り出されているようだ。

「見える」とは何か。24節「引用」、神の前で正直に答える、真っすぐに応答することができる、ということである。「やましいことがあると目を反らす」というではないか、後ろめたいことがあれば、人の目を気にする。しかし、人は騙せても、決してだますことのできない方がおられる。私たちは、神の目、そのまなざしの前にきちんと立つことが出来るか。いろいろ情けないもの、隠しておきたいもの、やばいもの、つまり罪を抱えながら、み前に立つのである。そんな恐れ多いことに誰が耐えられるか。この男は無理やりに、強いられて、そういう場に立たされたのである。そして彼は大胆に、神の前に語ったのである。25節「引用」、「目の見えなかったわたしが、今は見える」。彼の変化、癒し、こころが直にこのひと言に込められている。主イエスのことは、よく分からない。でもあのお方が、他ならぬこの私と出会って下さり、わたしを見えるようにして下さったから。

こういう新聞記事があった。「見た目はおばあさんでも、心はルンルンの女学生なんよ」。姫路市の村上玉子さん(78)は、61歳で神戸の夜間中学に通い始めた。卒業後は定時制高校に進み、今も識字教室で学ぶ◆戦争で両親を亡くし、他家を転々として育った。自分の生年月日も知らない。学校には1日も通うことのないまま、働きながら1男1女を育てた◆新聞は読めず、役所に出す書類は書けず、代書を頼んでは断られた。読んでくれる人があっても、本当かどうか分からない。誰も信じられず、他人が怖くてならなかったという◆そんな村上さんが先月、姫路で開かれた「ひょうご教育フェスティバル」で、学ぶ喜びを語った。「文字を一つ覚えるごとに、目が開かれた。人と話すのが大好きになり、今は人生ばら色。一生勉強を続けたい」。言葉を知ることで人は生まれ変わる(神戸新聞2019.12.23)

「文字を一つ覚えるごとに、目が開かれた、言葉を知ることで人は生まれ変わる」。すごく前向きの希望あふれる言葉である。「だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と私たちは後ろに向かって原因探しをする。主イエスは「神の業がこの人に現れる」、「神の働きがあきらかにされる」と前に向かって告げられる。主イエスの言葉一つを知るごとに、目が開かれる。耳が開かれる。そのようにして神の働きが明らかにされる。それを生きるのが人生である。「楽ではないが、楽しい」。