「すべてに加えて」 コロサイの信徒への手紙3章12~17節

「三倒れ」というものの喩えがある。「京の着倒れ、大阪の食い倒れ、そして東京の飲み倒れ」。「着倒れ」は、着るものに金をかけすぎて財産をなくすこと。「食い倒れ」は、食に金をかけすぎて財産をなくすこと。「飲み倒れ」は、酒場が多く、飲み過ぎて身上をつぶすこと。服飾にできる限り贅沢をする優雅な京の気風と、食べ物の質を重んじる商人の町である大阪の気質と、さまざまな背景の人々が入り混じり、お近づきに一杯やろうかという東京の気質を切り取ったものである。皆さんはどれだろうか、着倒れか、食い倒れか。あるいは、飲み倒れか。あるいは「共倒れ」か。

「服装とは生き方のことだ」、という言葉を吐いたのは、ファッション・デザイナーのイヴ・サン・ローランである。こういうその道の権威が語ると、それらしく聞こえる。「あなたの服装を見れば、あなたがどんな人か分かる」と言われているようだ。もっともこの言葉は「服装」に代えて「芸術」でも「信仰」でも「趣味」でも成り立つのだが。

人間は裸で生まれてくる。親はその裸の子に服を着せる。親が子どもに初めてしてあげることが、「服を着せる」という行為である。これは人間の親だけがしている行動である。だから、旧約聖書で「服を着せる」とは「保護する、守る」という喩えでもある。創世記の初めに、罪を犯し、裸でエデンの園を追われたアダムとエバに、神は革の着物を作って、彼らに着せられるのである。新約でもそう、「放蕩息子の譬え」で、心身ぼろぼろになって家に戻ってきた息子に、父親がしたことは、まず走り寄って「抱きしめる」こと。そして、いち早く「晴着」を着せることを召使に命じる。なぜ父親はそんな行動を取ったのか。それは「親子の情」でしょうという見解も成り立つが、事態はもっと切迫している。抱き留めて息子を許すことを外に表し、そのしるしとして服を着せる、つまり「保護」しなければ、村人によって掟破りの道楽息子が帰って来たというので、村の名を貶めた、他の若い者に悪い手本となるということで、殺害される可能性があるからだ。「服を着せる」ことはすなわち「守り保護する」ことの象徴である。

ある牧師で幼児教育に長年携わっていた方がこう語られている。「教育というのは、着物を一枚一枚着せて行くようなものだと、いつとはなく考えるようになっていた。身辺雑記風に言えば、幼児教育は肌着を、小学生はシャツ、中学はスーツ、高校や大学はコートを着せるようなものだと、経験がたとえるようになった」。この譬えは興味深い。人間は成長と共に、上に着物をはおるようにして大きくなっていく。何枚もの服、体験、経験やら習熟、知恵や知識を重ね着して、それで自分の身を守り、自分を表現し、自分を作りながら歩んでいく、というのだろう。着物の譬えで思いだすのは、遠藤周作氏である。彼は自身のキリスト教信仰は、母が自分に着せてくれた着物だという。しかし残念ながらその着物は自分の身の丈に合わない。袖はぶかぶかだし、長さも寸足らずである。こんな自分に合わない服は脱ぎ捨てたい、と思うのだが、折角、母親が自分に着せてくれた着物を、おいそれと捨てる訳にはいかない。しかしそのままでは着られない。だから遠藤氏はそのぶかぶかで寸足らずの「キリスト教」という着物を、自分の身体に合うように、縫い直そうするのである。それが彼の文学の背後にある物語だと言う。そうかもしれない。

外から与えられ、着せられた着物を、子どもは自分でいろいろ工夫して自分なりに手直しをして、生きてゆく。そこに成長のドラマがあるのだろう。しかし今日、その子どもに着せるべき服を着せず、裸のまま放りだす、あるいは、その服を強盗のように剥ぎとるところに、問題の根があると言ったら言い過ぎか。たとえ身の丈に合わない着物でも、子どもに着せるべき価値のある着物を、私たち大人は持っているのか、と問われている気がする。そしてすべての服の中で、子どもに、一番上に羽織らせる衣類、最後に着せる服とは、どのようなものか。

今日はコロサイの手紙からお話をする。先ほど申し上げたように、聖書には服、着物についての話題は結構多く記されている。聖書の人々がどんな格好をしていたか。大体想像がつく。そして信仰生活が「服、着物」と関連して語られていることに注目させられる。今日のテキスト、12節「身に着けなさい」という言葉は、「習得する」という意味ではなく、文字通り「服を着る、着物をまとう」という意味である。そしてその前提のように「神に選ばれ、聖とされ、愛されているのだから」という但し書きがある。ここでは暗黙のうちに、神が、人間の親が子にするように、着物を作り、それをひろげ、裸の子どもに着せようとして下さっている、という描き方がされている。

憐れみ、慈しみ、謙遜、柔和、寛容等の徳目は、自分が努力して、訓練して、自分の能力として獲得し、体現するというものではない、と言う理解がある。それらは、神の与える恵みの賜物であって、それらをありがたくいただいて、服を着るように自分にまとうものなのである。放っておいて自然にこういう徳は生まれて来ないだろう。それならば努力して、こういうものは本当に身に付くのか。柔和や謙遜に見える人でも、意見をされると途端に頑なになり、まったく耳を傾けないことはざらである。

だから今日のテキストはこう語る。14節「愛を身に着けなさい」つまり「愛を服のように着なさい」というのである。「愛を着る」とはどういうことか。キリスト教は、伝統的に「悪」というものは、「愛」が欠如した状態と考える。どんな素晴らしい行いも、どんなに憐れみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容があったとしても、そこに「愛」がなければ、一切は空しく、「悪」となると考える。逆に言えば、何事によらず、そこに少しでも、一滴でも愛のかけらがあるなら、神の大きな働きを生みだしていく、と言えるだろう。

14節の後半のみ言葉「愛はすべてを完成させる絆です」、この翻訳はあまり正確ではない。直訳すれば「愛がすべてを完全へと結びつける」。完全とは私たちのこと、私たちの行いが、完全になるというのではない。愛があれば完全になる、完成するというのではない。完全とはただ主イエスの生涯であり、その行き着いたところ、十字架であり、その背後にある神のみこころ、みわざである。私たちはすることなすこと思う事、すべてに不完全である。子どもから大人になっても、相変わらず罪を犯し続けるどうしようもない者たちである。しかし、父母が裸の赤ん坊に着物を着せるように、そこに主イエスの十字架の愛が注がれる。その愛を知り、その愛を受け、それを着る時に、私たちは全き神に結び付けられて、真実に生かされるものとなる。

最初に引用した「服を着せる譬え」、こう続く「教育年齢が高学年へと進むにつれて、基本的なこと、基礎的なものは見えなくなって行く。思いだされることもなく、当然のこととして、意識の底に沈んでしまう。幼稚園の頃、ハンカチをたたみ、ひもをやっと結べるようになったなどと、記憶していることはまずない。自然に出来るようになったと思いこんでいる。叱られた思い出のように消えている。しかし、それは見えないだけのこと、身体に肌着のようにぴったりとついているのだと考える。けれど私たちは、人がどんな肌着を身につけているか、などということでは評価しない」。主イエスの十字架は、そこから注がれる愛は、肌着のようなものである。最近は肌着に寒さ暑さのためのハイテクが使われる。肌着が気持ち悪いと、落ち着かない。主イエスが十字架に付けられた時、血を流し痛みに呻く時に、その十字架を前にして、その時は誰もそこに注がれている深い愛を、さらに神の復活の命や力を思う人はいなかった。しかし、肌着のように見えない愛が、私たちの心と体を温めているのである。暑さ寒さも彼岸まで、涼しい季節を迎える。主イエスの暖かさを、もう一度思い起こしたい。