「命あっての物種」と言われる。「命(いのち)」は本来、「いのうち」だったという。「い」は、すなわち「飯(い)」、ご飯を指す。「うち」は今でも「頑張れるうちは働く」などと、よく使われる。敢えて言えば「~までは」。生きていく、とは「ご飯を食べられるうち」。つまり命とは、いのうちから「う」を省いた言葉だと、日本語の起源を探る本で読んだ。命を保つためには、いかに「食」が大事か。昔から考えられていたことが分かる。
今日は「世界聖餐日礼拝」を守る。「聖餐」といっても、元をたどれば、主イエスが弟子たちを始め、たくさんの人々と食べた普段の食事に遡る。「主の晩餐」とも言うが、「餐」といっても贅沢に山海の珍味を取りそろえたよう高級なものではなかった。パンとチーズ、そしてオリーブ、少しのぶどう酒といった、極くささやかな食卓だったろうが。
弟子たちはこの主イエスのみわざを受け継ぎ、教会で毎礼拝の中で、この主イエスと共なる食事を再現した。弟子たちは「あなたたちの手で彼らに食べさせなさい」と主イエスから命じられたからである。しかし、ささやかな食事でさえも、食卓を整えるのは大変なことであった。それでも教会は、頑固にそれを守り続けた。文字通り、それは「いのうち」命であったから。
「食べる」ことは大切だから、聖餐も教会にとって最も大切な中心になった。大切なものに人間は真面目になる。聖餐についてどうあるべきか。真剣に真面目に議論した。ところが大事なものだからと、くそ真面目になりすぎた。聖餐についてのいろいろな考え方を、異なる考え方を許せなくなってしまった。それで教会は分裂した。今もその尾を引いている。聖餐で分裂したのだから、もう一度、聖餐を共に守ることが出来るなら、再び教会はひとつになれる、これが世界聖餐日の祈りである。
さて今日はテモテへの手紙一からお話をする。牧会書簡の内の一書である。使徒パウロが弟子のテモテに、教会運営上の指示、アドヴァイスと与えるという形式で書かれている。テモテは実に長い間、パウロに仕え、パウロの手足となって労した伝道者である。パウロと一緒に仕事をした、それだけでも偉いとほめてあげたくなる。実際、先輩の牧者から、いろいろ指示やアドヴァイスを受けたことだろう。「何事につけ、先達はあらまほしきことかな」。新米教師への先達は、この国の教会の課題でもある。
もっともこの手紙が記されたのは、パウロの時代からは、40~50年程後の時代である。パウロの時は、ヘレニズムの世界に、教会がまだできたばかり、生まれたばかりの頃である。しかし、テモテへの手紙が書かれた時代は、教会が数を増し、ある程度大きくなり、キリスト教もユダヤ教とは違う独自な歩みをたどっている。教理も次第に明確になって来たという頃である。ところが教会も生きて動いているから、さまざまな問題をはらんで歩むのである。
具体的にはどんな問題があったのか。4節、教会の中にいる人々が、議論や口論に「病みつき」になっている、という。新共同訳は上手く訳している。「病気になる」、注意しないと議論や口論で病気になるらしい。皆さんは大丈夫か。なぜなら本来議論は、正、不正を明らかにし、判別するものではないからである。人間の多様な、複雑な、ひとり一人の考えを、聞くためにある。問題は誰が正しい間違っている、ではない。正しさを立てようとするから、「ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じる」。人の話を聞きながら、神の御心を聞こうとすることに焦点がある。だから激しい議論になることがあっても、最後に祈って「アーメン」があるなら、それで終わりなのである。また次の時には、新しく聞くのである。
さらに5節後半「信心は利得の道と考える」。先々週23日、米ニューヨークで開かれた国連気候行動サミットで演説しスウェーデンの少女グレタ・トゥンベリさん(16)が国連で演説をした。毎週金曜日に学校を休んで1人で座り込み、政府に温暖化対策を訴えた。その姿に同世代の若者が共鳴し、「未来のための金曜日」と名付けられた運動が拡大。先週のデモには世界で400万人が参加した。そのトゥンベリさんが国連気候行動サミットで演説した。「あなた方が話すのは金と永遠の経済成長というおとぎ話だけ」。あなたがたは「金と経済だけのおとぎ話を信じている」と彼女は喝破した。まして大人は信仰すら利得に置き換えるのある。
私たちは、どこに足を置くべきか。今日のテキストはそれを見事に語ってくれている。7節「わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去る時には、何も持っていくことが出来ないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです」。聖書の「いのうち」の教えである。
今回、台風被害を受けた千葉県の様子を見聞きするにつけ、生活が豊かになって、ものがたくさん有り余るような生活の中で、かえって「いのうち」がゆがめられ、危うくなっていることを深く考えさせられた。電気が途絶えた。なかなか復旧しない。断水で使える水が限られる。停電で冷蔵庫の物は捨てざるを得ない。しかも店には総菜がない。支援物資も届かず、命をつなぐ食に困る姿が、東京のすぐ隣で見られたのである。
さらに停電の影響は食をもたらす側にも及んだ。暑さで牛や豚が死ぬ。酪農家は機械で乳を搾れず、スーパーでは地場の牛乳が品切れになった。電気が止まると連鎖反応的に、すぐに食を生み出すシステムが破綻し、食の供給が、著しく困難になるのである。これが、便利でものが有り余る、今の私たちの生活の実情なのである。「いのうち」が歪められてしまっている。
「いのうち」を私たちは本当にささやかな、「小さなパンのかけらと盃」をいただくことで、心に刻みつけるのである。私たちは、「小さなパンと盃」で、主から魂を豊かに養われる。つまり魂の養い、これを潤すには、珍味や佳肴、贅沢な大御馳走は必要がない。「小さなパンと盃」で十分である。その代わりにどうしても必要なものがある、主の十字架の愛、これをいただく限り、死んでも私たちは「主のいのうち」にある。
「みづからの歳にみづからおどろきて栗まんぢゆうをひとつ食べたり」小島ゆかり。私と同年代の歌人である。まだそれほどのお年ではないが、人間は、年を重ねると皆、自分の年齢に驚くのだろう。いつのまにか、年月が経っている。でも、食べられるうちは自分の口で食べる。そこに命をつなぐささやかな幸せがある。食べることは当たり前の作業、ルーティンではなく、命を紡ぐ大切な働きである。命の与えられていることを、食べることによって確かめ、味わうことによって命の喜びを満たす。いのちの驚きである。そして聖餐こそ小さなパンと盃によって、「いのうち」の大きな恵みを、最も純粋にいただくのではないか。その恵みに驚きつつ、聖餐にあづかろう。