「どこから来たのか」ヨハネによる福音書2章1~12節

正月の恒例のテレビ番組で、いろいろな芸能人に「違いを当てさせる」という趣向の番組があった。食べ物でも楽器でも、ひじょうに高価のものと安価のもの違いを見分けて、高価なものを当てる。例えば、総額で時価数十億円するという弦楽器と、学生の練習用の楽器、それでも数百万円はするという。演奏者は同じで、音色の違いが聞き分けられるか。

また時価、百万円のワインと、ひと瓶一万円のワイン、その味の違いを見分けるというチャレンジがあった。こちらとしては一万円のワインなるものも、口にしたことはないので、違いを見分けるレベル以前の問題である。やはりほとんどの芸能人も、味を聞き分けることはできないが、ひとり、絶対に間違わない芸能人がいて、目下のところ、連勝驀進中であるという。

数ある世界のワインのなかでも一番高価と言われている「シャトー・ペトリュス(Chateau Petrus)」というフランス・ボルドー産のワインがある。その中でも当たり年だったと言われるのが、1989年製の1本で、もっとも著名なワイン評論家が100点満点をつけたとか。現在の取引価格は、時価百万円を優に超えるという。瓶のラベルが特徴的で「鍵を持った男」が描かれているのだが、これはイエス・キリストの12使徒のひとりで、第一の弟子、キリストから天国の鍵を託された、「天国の門の守護者」のペトロだと言われている。醸造所の名前「ペトリュス」というネーミングもペトロのラテン語読みから来ているのだが、なぜ主の弟子ペトロの名前が用いられているのか、皆さんはどのように想像されるか。

「濡れた子犬」「蒸されたバナナ」「牛小屋」「チョコレート」「なめし革」「鉄」「スパイス」「タバコ」「紅茶」「ピーマン」「キューピー」「火打ち石」「猫のオシッコ」。これらの用語は、あるものの良い特徴、個性を言い表す時に使われる。そのあるものとは何か、ワイン、ぶどう酒である。「このワインは、雨に濡れた子犬のようだ」という風に使うそうである。どういう味や風味を表す表現なのか。「よく熟成している」ということであるらしい。ぶどう酒の品定めには、かなりの文学的感性と素養が必要であるらしい。

たかが元はぶどうの実とは思うが、そのアルコール発酵水の中にも、様々な要素が入り混じり、それらが互いに手をつないだり、反発したりしながら、色や味、形や風情を作っているということらしい。残念ながら私たちのほとんどは、それを十分に判別する舌を持ち合わせていない。今日の聖書個所、「カナでの婚宴」の物語の中で、宴会の頭が味見をしたという、主イエスによってもたらされた「良いぶどう酒」とは、どんな味や風味がしたのだろう。「濡れた子犬」「牛小屋」あるいは「猫のおしっこ」か。

今朝もヨハネ福音書の続きから話しをする。有名な「カナの婚宴」の物話である。福音書の中でもよく知られた個所である。特に教会では伝統的に、主イエスの「最初のしるし」あるいは「最初の奇跡」として、新年に読まれるべきテキストとして、位置づけられてきた。それ以上に、メリハリの利いた優れた文学性をもった記事である。婚宴という「喜びの時」、そしてそれを巡る舞台裏、裏側の奮闘やドタバタが見事に描き出されている。観客(婚宴に招かれた人)は表舞台しか見ていない。「メデタシ・メデタシ」の裏側で、実際どんな事態が繰り広げられているのか、深く考えさせられる。皆さんは舞台裏、裏方の仕事をしたことがあるか。結構面白いものだ。お芝居でもコンサートでも、そういう芸能に限らず、人間の日常の諸々の営みにおいて、舞台裏にいるといろいろなことが味わえる。教会はまさに舞台裏がよくよく味わえる場所だと思う。必ずと言っていいほど、小さな大きな突発事態、ハプニングが起こって来る。あるはずのものがどこか行ってしまったり、小道具が壊れてしまったり、それをどうにか何とか穴埋めしながら、表舞台が作られる。観客は何事もなかったかのように、観て楽しんでいるのであるが。その裏側のドタバタを想像したことはあるだろうか。

カナでの婚宴に、主イエスと弟子たちも招かれていたと言う。主イエスが呼び集められる群れは、共に喜び楽しむ一団なのである。ところがよりによってその喜びの真っ最中に問題が起こる。「ぶどう酒がなくなりました」。母マリヤは主イエスに訴える。なぜマリアは息子に頼んだのか。それにしても、母の求めに対する主イエスの態度は、いささかそっけない「女よ、あなたとわたしに何の関係があるのです」つまり「関係ないだろ!」というつっけんどんな口のきき方で、これではまるで「反抗期の中学生だ」、という学者の論評もある。想像をたくましくして読むなら、母は思わず愚痴ったのだろう。「あなたが友達を大勢連れて来て、遠慮なしにがぶ飲みするから、足りなくなったんでしょ!」、こう言われてカチンときた、ということか。たかが「ぶどう酒」である。飲めばなくなる、いつまでもあると思うな、金と酒である。

それでも母は息子を頼りにしている。「この人の言う通りにやってもらえませんか」、この子なら何とかしてくれるわ、一方的で勝手な思い込みなのだか、親子の間とはこんなところでつなぎ留められているとも言えるだろう。こういう間こそが、人間の「情、らしさ」なのである。厄介だが、失われたらやはり寂しい。情にほだされたのか主イエスはとんでもないことを始める。玄関前にある石甕に水を満たせ、という。ユダヤ人の家では、外から家に入る時に、汚れを清めるために、汲み置きの水で手をすすぐことになっている。婚礼の時には来客も多いから、たくさんの水甕が用意される。使用人はその甕の縁いっぱいに水を汲んだ。「さあそれをくんで、世話役のところに持っていけ」。その水の味見をした世話役は、花婿を呼んで言う「あなたは良いぶどう酒を、今まで取って置いた」。

この物語の主役はだれか。舞台の上では当然、「花婿」、そして助演者は「宴会の世話役」である。しかし本当の主人公は誰か、勿論、主イエスである。500ℓ以上の水を、ぶどう酒に変えた張本人である。この分量、聊か多すぎないか。「飲みすぎでしょ!」と言われた母への当てつけにも思える。しかし、一番舞台裏で動き回り、働いているのは誰か。実は「召使たち」なのである。そして何度も「召使」という呼び名、残念ながら名前は記されないが、繰り返しその呼名が語られる。どうして召使が重要な役割を果たしているのか。それは9節「水をくんだ召使いたちは知っていた」という言葉に秘められているであろう。

宴会に招かれた客の誰も、「良いぶどう酒」がどこから来たのか知らなかった。一番の主役である「花婿」も、宴会の頭、総責任者の「世話役」すら、「良いぶどう酒」の出所は分からないのである。この美味い酒が、どこからどのようにもたらされたか、知る由もない。ただ訝しく、不思議に思うだけである(すべてを当たり前にではなく、不思議に思うだけまだましなのだろうが)。しかし「召し使いたち」は知っていた。自分たちの汲んだ水、いささかの苦労はした。重たい水を何度も何度も井戸からくんで、ここまで運んだのだから。しかしそれでもたかが水なのである。ただ水を運んだだけなのだ。水を運ぶなら、毎日いつも日課のこととして行っている。

しかしこの世で、そのたかが水が、良い酒に変わるということがあるのだ。「雨に濡れた子犬」になるのだ。なんということだ。その不思議を、最も身近に、直接、ダイレクトに召し使いたちは目にし、味わっている。これこそ主イエスと共にある、一番の恵みではないか。主イエスと共にあるものは、そのみ言葉を聞いて、そのように生きるときに、何を経験するのか、人生の中で、たかが水が、というようなものが、良い酒に変わったという出来事が起こるというのである。

昨年は、関東大震災の発生から100年を経過する時であった。そこで『みだれがみ』の歌人、与謝野晶子の一首が言及されていたことを記憶している。「誰みても親はらからのここちすれ 地震(ない)をさまりて朝に至れば」。被災者の誰もが親のように、はらから(兄弟姉妹)のように思える、と詠っているこの時、作者の与謝野晶子自身も被災者の一人であった。実際、この悲惨な悲劇的出来事から生まれ出た果実が、この国にはいくつもあり、今もその善い業が受け継がれている。作者の昔に限らない、ここ数十年の間、「阪神淡路」で「中越」で「東日本」で、「熊本」で、身をもって震災を経験したたくさんの人々がいる。幸いにそうでない人もいつの日か、いや、今日にでも、被災者になる可能性の方が高いかもしれない。現実に年が改まった日、元日にそれは襲ってきたではないか。そこで「やはり神さまはいない」、と心の正直な思いを漏らす人が居る反面、それでも痛みを抱えながら「誰みても親はらからのここちすれ」という思いで、祈る方々も多くある。

私たちの人生には、喜びのぶどう酒が切れてしまうことがある。しかし人生の舞台裏で、私の背後で働かれる主イエスがおられる。その方は、水を芳醇なぶどう酒に変える力を持っている。「ほら、新しいぶどう酒が運ばれてくる、見えるか、新しい器で運ばれてくるではないか(『カラマーゾフの兄弟』)」。ただの水が、良いぶどう酒に変えられるのを、人生で目の当たりにするのである。主が変えられたのは、2ないし3メトテレスが入る水がめ6つ、都合、ぶどう酒は計500ℓ、それにしても量が余りに多いではないか。招かれた者がいくら多くても、足りないことはない、ということか。