祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書9章1~9節

「一匹の蝶の小さな羽ばたきが、少しずつ世界に影響を与えて、最後には地球の裏側では暴風を引き起こす」という「バタフライ効果(バタフライ・エフェクト)」と呼ばれる考え方がある。もとは、米国の気象学者ローレンツが1972年に行った「ブラジルでの蝶のはばたきがテキサスに竜巻を引き起こすか」という講演の演題に由来する、と言われている。現実に本当なのかはひとまず置くとして、これは予測が不可能な複雑な現象についての探究「カオス理論」で取り上げられる喩え話のようなものである。但し、自然であれ人間であれ、どれ程小さな動きや働きも、他とは全く無関係、ということはありえないであろう。

福音書の著者ルカは、すぐれた歴史家である。ユダヤの地、それも辺境の地ガリラヤのナザレ、その地の出身の大工の息子から始まる「神の国運動」とも呼びうる小さな宣教のムーブメントが、ユダヤを超えて、遥かローマ・ギリシアという広大な世界に拡がっていくのである。その歴史と今が、そして私がどのように関わっており、意味を持っているのかを、広範な視点で位置づけようとの目論見を持って福音書を記すのである。今日の聖書の個所は、前半は「十二人を派遣する」と題され、後半は「ヘロデ戸惑う」と題されている。まず主イエスによって召命を受けた弟子たちが、宣教に遣わされる場面が語られる。それに続いて、そうした主イエスの宣教活動が、どのような影響をユダヤの世界にもたらすのかを、伝えるのである。

主イエスの宣教の方法とはどのようなものであったか。主はご自身で招かれた弟子たちを、さまざまな場所に派遣されたという。1節「十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わ」されたのである。弟子たちは「悪霊に打ち勝つ、病気をいやす力と権能」を主から授けられた、という。医学が未発達の古代では、疾病の本当の原因が分からなかったため、「悪霊」に起因するものとされた。その「悪霊」が病人を離れれば、恢復するという訳である。主イエスが授けた「悪霊に打ち勝つ、病気をいやす力と権能」がいかなるものか、詳細は不明であるが、現代風に言えば、要するに「看護」あるいは「介護」に比する仕事である。「力と権能」とは「スキル」とも言い換えられるであろう。それは単に学問的知識や知性だけによって養われるのではない。人間に対する事柄、特に「信頼」を重要な媒介とする仕事は、さまざまな現場での経験がものをいい、特に、現場で師と仰ぐ人や先輩たちの存在、さらにはそれらの人の振る舞いや声掛け、仕事ぶりを見て、それに「倣う、まねる」ことに尽きるであろう。主イエスは人々から、「ラビ(先生)」と呼ばれていたが、その呼称はまさしく主イエスの人となりをよく表すものだったであろう。単なる敬称ではない。親愛の師である。

但し、十二弟子だけが、主イエスの名代で、宣教活動に従事したという訳ではなかろう。主イエスの十字架の死と復活、そして昇天、聖霊降臨の出来事から程なく、パレスチナだけでなく地中海周辺のヘレニズム世界に、いくつもの教会が立てられ(もちろんそのほとんどは家の教会だったろうが)、ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人等様々な人々が、教会に集うに至ったというのは、ただこの直参の弟子たちの、あるいは後に使徒に加えられたパウロだけの功績によるのではない。主イエスの出会い、その後について行った多くの人々が、十二弟子と同じように、いやそれ以上に、主イエスからスキルを与えられて、宣教に邁進したのが事実であったろう、だからこそ多くの人々に、大きな影響を及ぼすナザレの人は、危険視されて十字架に付けられ、そのみわざを受け継ぐ者たちも、激しく迫害されたのである。

この個所で興味深いのは、弟子たちを派遣するにあたって、主イエスが次のように命じたことである。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」。着のみ着のままで、一切、何ものも持たず、手ぶらで旅をするように出かけて行き、誰か招いてくれる人がいたら、その家だけの世話になり(いろいろな家を渡り歩かないで)、誰も招いてくれないなら、非難がましいことは言わず、ただ足についた埃を払い落として、文句や仕返しの代わりとしなさい、と言うのである。

ルカは他の福音書の記事と比較して、派遣の時の弟子のいで立ちを、極端に省エネ化、断捨離して描こうとする。他の福音書では、主イエスは必要最低限の携行品は持つように、と教えるので、本来はそちらの方が元々かもしれない。実際、全くの手ぶらでは、散歩はできても数日の旅をすることも不可能だろう。しかしルカは、ここに主イエスの宣教の本質、実際を比喩的に語ろうとしているのである。即ち、主イエスの宣教とは、およそ大勢の人を魅了し、注目させ、派手な広告とパフォーマンスによって、多数の顧客を獲得するような、企業的な戦略とは全く無縁だったということである。「何も持って行ってはならない」というようにまったくの手ぶらで、丸腰で、未知の人々と出会い、語り合い、食事を共にし、病人を看取る、それだけである。しかしそこにこそ「癒し」が起こるのである。しかし、そんな世界の片隅の小さな蝶の羽ばたきが、世界に何をもたらすというのか。

主イエスの宣教活動、いわば「神の国運動」の噂が、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパス王の耳にも入り、王は「戸惑った」というのである。この「戸惑った」とは、「訳が分からない、腑に落ちない」という意味であるが、ただ「分からない」というだけではなく、「分からないが、なぜか心惹かれる、非常に気になる」という意味である。

ヘロデ王は「イエスに会ってみたい」と思ったと記されている。そしてこの言葉は、ただヘロデだけの問題ではなく、ナザレのイエスに共感する人も、反感を覚える人も、好むと好まざるとにかかわらず、人々の心に生じた感覚であったと、著者は暗にほのめかしているのである。「あのバプテスマのヨハネを殺した残虐な王すらも、ナザレの人に強い興味を示したのだ」と。ここには、神のみ手の業が、実際どのようにこの世界の展開されるのかを語ろうとする、ルカ特有の神学が巧みに語られているであろう。神が世界の始まりに、無からすべてのものを創造されたように、神の国もまた「何も持って行ってはならない」ところから、豊かに始められるのである。私たちひとり一人の人生もしかりであろう。