「はるかに超えて」エフェソの信徒への手紙3章14~21節

この月上旬の台風10号が襲来した時の、ある新聞のコラムにある小話が紹介されていた。

男がおぼれていた。幸いなことにボートがやってきた。「大丈夫か?」と差し出された救いの手を、この男は断った。「神さまが助けてくれる」。また、別のボートがやってきたが、やはり、「神さまが助けてくれる」。男はそのままおぼれ死んでしまう▼天国に着くと男は神さまに抗議した。「なぜ助けてくれなかったのですか」。神さまは腹を立てたそうだ。「ばかもの! ボートを二度も遣わしたではないか」。なにかの映画で聞いた小咄(東京新聞「筆洗」9月8日付)。

大規模な自然災害で多くの人々の命が犠牲になったり、戦争によって「無辜の人々の生命」が奪われる時に、必ず沸き起こる議論がある。不条理な出来事に対して、神はどこにおられたのか。あるいはなぜ沈黙していたのか、という議論である。普段、平穏無事で何も起こらない時には、神への問いは発せられない。災厄や災害は「異常」、平和や平安であることは「当たり前だ」と、と考えるからであろう。しかし、まさかの時、人間の手には負えず、まったくお手上げの状態の時に、初めて人は、神についての思いを始めるのかもしれぬ。

今日はエフェソの信徒への手紙3章からお話をする。13節が区切りとなって、14節に連なっている。今日の聖書個所は、最初は「父(なる神)に祈ります」から始まり、末尾が「アーメン」という章句で閉じられているから、「祈り」の部分であることが分かる。本手紙は、けっこう文章の構成が凝っていて、全体が変化ある「楽曲」のように設えられている。1章の後半に「祈り」が記され、それがぷつんと中断され、再び中ほど、今日の個所で「祈り」が繰り返され、そして最後に「祝福の祈り」が記されるという、まさに礼拝そのものの流れであることが分かる。一つの手紙の中に、み言葉と説教、賛美と祈り、という「礼拝」の要素をちりばめて、リズムを持った楽曲作品のようにしているのである。これを朗読していけば、そのまま礼拝を守っている風情となる。新約文書中、最も後期に書かれた書物の一つであろうと想像されている。やはり時の推移とともに、物事は洗練されてくると言うことだろうか。

さてこの個所に記された「祈り」だが、初代教会の祈りの実際がどのようなものであったか、何が祈られていたのか、を知ることができる点で、興味深いテキストである。一言で言うと、非常に整えられた祈りである。用語も、言葉遣いも、祈られている事柄も、随分の知的さ?をも感じさせられる。例えば、15節の章句は、翻訳すると意味不明のような言葉となる。ここを精一杯原文の意図を忠実に訳せば、父(なる神)「パテール(パパ)」によって、キリスト者は「家族(パトリア)」と呼ばれている、つまり「パテール」と「パトリア」の駄洒落を使いたいだけなのだ。韻を踏んでしゃれた言い回しができるだろう、というドヤ顔の章句なのであるが、残念ながら、私たちにはさっぱり分からない。

また「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」、という言葉にしてもそうである。大体「愛」という本質的には見えないものに、寸法など想定するのは、ナンセンスである。確かに主イエスが私たち示された「愛」とは、途方もなく、とてつもないものであるのは間違いないことである。それに「寸法」を云々するのは、愚かなことだ。しかしその「愛」を実際の大きさがあるとするならば、いかばかりか。この国では、広大きなものの大きさを表すのに使われる尺度は、「東京ドーム」何個分である。決して「甲子園球場」とは言わない。大きさでは「甲子園」の方がでかいが、「東京ドーム」と言われると、実際に行ったことがない人でも、「そりゃ大きかろう」となぜか納得してしまう。この時代の人々は「広さ、長さ、高さ、深さ」と言われると、とてつもなく広大なもの、という印象を覚える「流行語」のひとつだったという訳である。「大きいことはいいことだ」という古の流行語のようのものと言っても良いか。

さらに「神の満ちあふれる豊かさ」、元々は一語だけの単語で表される「プレーローマ」この用語も、当時の人々が、好んで口にしたしゃれた言葉のひとつである。「真理」とはスカスカではだめなのだ。ぎっしりと中身が詰まっていなければ、損した気分になる。あの宇宙をも包む程の「広さ、長さ、高さ、深さ」を、びっしりと埋め尽くすほどの充満、ぎゅうぎゅう詰め、それこそ神の真理の姿だと、この著者はぶち上げるのである。「ソーシャル・ディスタンス」とはいうものの、殊、「真理」は「スカ」では駄目なのである。

なぜここに祈りが置かれるのか、13節を読むとその意図が見えて来る。やはり教会、そしてキリスト者の加えられている「迫害」について、教会の人々の心が委縮して、気落ちして、元気をなくてしまう状況がある。信仰もまたスカスカの魂の抜け殻になってしまう恐れがある。それを心配して何とか励ましを与えたいとの意図である。そのために最も必要のものは何か。

この祈りの文言の中心に、この言葉が置かれている。17節「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」。直訳「キリストが、その信実によって、あなたがたの心の中に住んでくださるように」。先週の修養会の学びが、ここで役に立つ。「信仰」、“ピスティス”、ここで新共同訳のように「信仰」と訳すと、人間のわざが前面に出てしまう。強い、確かな信仰によって、この心に主イエスを宿らせるのだ。そしてこの激しい迫害に、雄々しく立ち向かうのだ、というニュアンスとなる。他方「信実」と訳すなら、迫害によって、周囲の無理解によって、今にも私の心は壊れそうで、すかすかになってしまいそうである。心が壊れず、空っぽにならず、ことばの飢餓に陥らないために、ここに主イエスがお出でくださって、住んでくださるように、というニュアンスとなる。自分にはその力はないが、主イエスの方から来てくださるなら。

ある方がこういう体験語っている。簡易宿泊所が集まる山谷地区(台東、荒川両区)でときどき、炊き出しに参加している。昨秋、路上で横たわる高齢男性におにぎりを渡したときだった。「悪いね、ごめんね」。顔を上げた男性は、合掌しながら何度も私に謝った。見ると、片足の足首から下がなく、包帯がぐるぐると巻かれていた。「どうしたんですか?」と聞くも、聞かないでとばかりに「ごめんね」を繰り返した。助けを求めても当然の状況で謝る男性が、ふびんだった。知り合いの支援者は「山谷では偏見を持たれることに慣れ、卑下する人が多い」と指摘する。苦しくても、声を出せない人がいる。声なき声にもっと耳を傾けられるようでいたいと、日々思っている。(中村真暁氏、新聞記者)

「こころ」が空っぽになると、言葉が失われてしまう。「苦しくても、声が出せない」とは、人間が最も追い込まれた時の状態であろう。聖書の「こころ」とは、「はらわた」のことである。食物の飢えは、言葉の飢饉をもたらし、人間を「声なき声」の状態に置いてしまう。しかしそこにお出でくださる主イエスがおられる。壊れてしまったような心を訪れ、すかすかに乾いたその場所に自分の方からやって来て、そこに住もうと言ってくださる、主イエスがおられのである。この方なら、私たちの声なき声を聞いてくださるだろう。それこそ主のピスティス、「信実」であろう。